【断片から見た世界】『告白』を読む プラトンから新プラトン主義へ

プラトンから新プラトン主義へ:アウグスティヌスの『告白』へと立ち戻るにあたって

私たちはプラトンの言葉に耳を傾けることのうちで、哲学の歴史にとって決定的な意味を持つことになる、「存在の彼方」という表現に到達しました。

「『認識の対象となるもろもろのものにとっても、ただその認識されるということが、〈善〉によって確保されるだけでなく、さらに、あるということ・その実在性もまた、〈善〉によってこそ、それらのものにそなわるようになるのだと言わなければならない。ただし、〈善〉は実在とそのまま同じではなく、位においても力においても、その実在のさらにかなたに超越してあるのだが……。』」

この表現にまでたどり着いたことで、私たちには、『告白』におけるアウグスティヌスの探求に再び戻ってゆくための準備も整ったことになります。今回の記事では、プラトンの『国家』とアウグスティヌスの『告白』とをつなぐ結節点として、新プラトン主義の哲学について見ておくことにします。

〈一者〉をめぐる思索:プロティノスが残したもの

「新プラトン主義」の創始者である、プロティノスの抱いていた根本直観:
プラトンが『国家』で語っていた「存在の彼方」という表現は、哲学の営みそのものにとって根本的な重要性を持つものである。そして、この領域に私たちが見出すことになるもの、すべてのものに存在を与えているところの「かのもの」こそが、あらゆる存在者を超え、存在そのものをも超える〈一者〉に他ならない。

すでに何度か触れたように、プラトン自身はこの「存在の彼方」について、そして、そこに見出される〈善〉なるもののあり方については、意味深い沈黙を守り続けていました。プラトンよりも五百年以上後に生きた思索者であるプロティノスは、プラトンが展開した思索をおのれ自身のものとして引き受けつつ、この秘められた領域に大胆に踏み込んでゆくことになります。

思索者としてのプロティノスは、プラトンが語っていた〈善〉のことを、改めて〈一者〉として定式化します。といっても、〈一者(ト・ヘン)〉という名前は、言葉で言い表すことの決してできないもの、あらゆる存在の彼方にそびえ立つ「かのもの」を指し示すための、なしうる限りのぎりぎりの呼称にすぎません。ただ、あらゆるものを、〈イデア〉の世界を統括する〈知性(ヌース)〉をさえも超えた名づけえぬものをかろうじて呼ぶために、「一である」という名が選び取られたというのにとどまっています(cf.プロティノスにおいては、哲学する人間の魂は不断の思惟の修練を通して、自らの〈魂〉を超えて〈知性〉へ、そして、根源そのものである〈一者〉へと遡ってゆき、ついには〈一者〉そのものとの融即にまで至る)。

いずれにせよ、先人としてのプラトンが語り尽くすことのないままにとどめていた「存在の彼方」について、プロティノスが、恐らくはそれまでのいかなるプラトニストたちにも劣らぬ仕方でプラトンを深く読み込んだ上で、あえて言葉を通して語り出そうと試みたことは、彼個人の枠を超えて、哲学の歴史そのものにとっても極めて大きな意味を持つことでした。哲学の営みには、言葉では語りえないものをも、力の限りを尽くしてあえて語ろうと努め続けることが求められているのではないか。不可能性は思惟のパトスを押しとどめることなく、かえってそれを燃え立たせ、語り続けることへと駆り立てずにはおかないであろう。〈一者〉をめぐるプロティノスの思索から、私たちは、「語りえないものについては沈黙すべきか?」という問いについて考えるにあたっての、この上ない手がかりを見出すこともできるのかもしれません。

プロティノスからアウグスティヌスへ:『告白』に、根源的な仕方で出会い直すために

ともあれ、アウグスティヌスの『告白』との関連においてここで注目しておきたいのは、プロティノスがこの〈一者〉のことを、「神」という名を通して呼んでもいるという事実にほかなりません。

プロティノスの言葉:
「はたしていったい何ものが、たましいに父なる神を忘れさせてしまったのだろうか。自分はかしこから分派されたものであって、全体がかのものに依存しているわけなのに、そういう自己自身をも、またかの神をも識ることのないようにしてしまったのはいったい何であろうか……。」

「私たち人間は『存在の根源』そのものである〈一者〉から生まれ出てきたにも関わらず、そのことを忘れ去ったまま、この世界のうちで存在している。本当の生活が欠けているのだ。」このように考えるプロティノスにとっては、哲学の営みとは、人間存在が自らの知性そのものの働きへと改めて立ち戻りつつ、この「神」のもとへと還帰してゆこうとする絶えざる試み以外の何物でもなかったといえます。

2023年の現在において哲学する人間にとって「神の問い」が果たしてどのような意味を持ちうるのかという点に関しては、ただちに決定を下すことのできるようなことではなさそうです。しかしながら、上の論点を確認したことによって、私たちには、アウグスティヌスの『告白』の方へと再び戻ってゆくための準備が整ったと言うこともできるのではないか。

すなわち、『告白』における真理の探求が「存在の根源」そのものである神の探求へと収斂していったことは、単にアウグスティヌスという個人のものであることを越えて、おそらくは、哲学の歴史そのものの運命と深いところで響き合うものにほかなりませんでした。「存在の彼方」という問題設定は、プラトンによってその方向性が謎めいた仕方で示され、プロティノスによってそのありかが入念に探索された上で、古代という時代における「世界の終わり」を生きていたアウグスティヌスその人の元にまで手渡されたものだったからです。哲学の営みは「私たち人間が、もろもろの存在者が、世界が存在する」という謎を前にして、ただその「存在する」という事実のうちで立ち止まらざるをえないものなのか。それとも、人間が「なぜ存在するのか?」という問いを立てずにはいられない存在者である限り、哲学する精神は必然的に「彼方」へと赴き、「存在の根源」に向かって歩みを進めてゆかざるをえないのだろうか。世界の終わりにおける哲学には、「私たちは生まれてくるべきではなかった」を前にして立ち尽くす運命が待ち受けているのか、それとも、〈自らが傷ついてまでも与える愛〉のような何物かに向かって、一本の狭く困難な道が通じているのか。私たちは、一人の人間には追いきれないほどに発達した自然科学と技術とを手にしているこの現代においても、この「私たちは、そして世界は、なぜ存在するのか?」という問いに対する十全な答えを持ち合わせてはいません。2023年の現在時において『告白』を読むとは、数多の思索者たちが向き合い続けてきたこの問いに改めて向き合うことをも意味すると言えるのかもしれません。

おわりに

〈一者〉をめぐる思索の道を歩み続けたプロティノスは、「たましいの把握能力を純粋に保つように注意し、もって天来の響きを聞くの用意をしなければならない」との言葉を残しています。回心の直前の時期にプロティノスを読みふけったアウグスティヌスは、この哲学者から何を受け取り、どこに進んでいったのでしょうか。次回からは『告白』のテクストに立ち戻りつつ、アウグスティヌスの探求の道のりをたどり直すことにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 

 






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