【哲学名言】断片から見た世界 「信じること」の奥義

「揺らぐことのない確かさ」:信じることの問題へ

「揺らぐことのない確かさ」について語られている『告白』の一節を、もう一度引用しておくことにします。

「主よ、わたしはあなたを疑惑をもってではなく、確信をもって愛するのである。あなたはわたしの心をあなたの御言をもって貫かれたから、わたしはあなたを愛した。」

アカデメイア派の懐疑主義をくぐり抜けて「回心=取って読め」の出来事を経た後のアウグスティヌスはこのように、内なる確信に従って生きる人間へと変えられました。ここには「信じること」という『告白』の、そして、「信仰の道」の核心が関わってきているので、今回の記事ではその点について考えてみることにします。

信じることは、人間の自由にはならない

「信じること」について最初に確認しておきたい論点は、次の二つです。

改めて考えてみるならば、「信じること」は、人間の生き方そのものを定め、導いている決定的な契機にほかなりません。ここにおいてはいわば、何を信じるかということが、それぞれの人がどのような人間であるかを決めているとさえ見ることもできるのではないか。

「太陽は明日も昇るだろう」のような、日常にとって根源的な信から、「やはり、Aは人生にとって大切だ」「Bは、今のわたしにとって必要ない」といった生き方を導く信に至るまで、人間の生はさまざまな信によって物の見方を与えられ、導かれています。何を信じるかによって、人生のあり方そのものも大きく変わってくることは間違いなさそうです。

② しかしながら、ここがおそらくは決定的に重要な点にほかなりませんが、何を信じるのかという点は、実は信じている当人にとっても完全に自由になるものではありません。

ある人が今まで信じてはいなかった、Cという信念を持ちたいと思ったとします。時とタイミングが合っているならば、その人はあたかも奇跡ででもあるかのようにして、「Cを信じない人間」から「Cを信じる人間」へと変えられることでしょうが、そうでない場合には、たとえ当人が願ったとしても、Cへの信は与えられません。「Cを信じられたらいいだろうなと思うのに、どうしても信じられない……」という状況は、私たちの人生においても時折起こることのようです。

「旅する人間 homo viator」は果たして、何に出会うのだろうか

以上のようなことを考えるとき、たとえば『ローマ人への手紙』第5章における次のような一節は、「信じること」について私たちに多くのことを教えてくれるものであると言えるのではないか。「希望すること=生きてゆくことへの信頼」について語る文脈において、パウロは言っています。

パウロの言葉:
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

パウロの生涯は心身上の不安や迫害の恐怖など、無数の苦難を伴うものでしたが、彼自身は生き続けてゆくことへの信頼を失うことがありませんでした。その「信」の秘密を、彼はこの箇所では「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれていること」として語っていることになります。

すなわち、少しだけ神学の方にまで踏み込んで言うならば、信じること、信仰というのは、根底においては自分自身の意志によってではなく、神の側からの働きかけによって与えられるものであると、パウロは言っているわけです。人間自身の心よりもはるかに深いところから湧き上がってくる「愛」(この「愛」は、あらゆる感傷や不確かな気まぐれを超えて、ほとんど形而上学的と呼ばざるをえないような厳密さを伴って、実存の奥底から人間を変えてゆくような性質のものであると思われます)と共に「信じる働き」が与えられ、この「信じること」は「神とは愛であった!」という静かな驚きを伴いつつ、生きてゆくことへの信頼を人間に与えずにはおかないものであると、パウロは語っていることになります。

このことは、2022年の現在を生きている私たちにも、「信じること」について考えるにあたってのこの上ない手がかりを与えていると言えるのではないか。古くから用いられてきた言い方を借りるならば、私たちの生とは一つの信から別の信へ、「信じないこと」から「信じること」へと移り変わってゆく「旅する人間 homo viator」の生にほかなりません。はたして、どのような人や言葉との出会いが、私たちの物の見方や感じ方を変えてゆくのでしょうか。生そのものを形作る「信じること」のあり方が生まれ変わってゆく時、その出来事を引き起こすのは、いかなる愛の深みなのでしょうか。その答えは、私たち自身の生涯が結論を見出す時になってはじめて十全な仕方で明かされることでしょうが、このコラムを読んでくださっている方の人生の旅が、いかなる時にあっても、暖かなものに満たされていることを祈ります。

おわりに

「恵みと平和とが、あなたがたにあるように」と、旅する人々は互いに語り合わずにはおかないものですが、『告白』の道行きそのものもまた、アウグスティヌスが「信じない人間」から「信じる人間」へと変えられてゆく心の旅の記録にほかなりません。懐疑主義にまつわる問題についてはこれで一区切りをつけるということにして、次回からは彼の生き方を大きく変えることになる、新たな人物との出会いの方へと移ることにしたいと思います。

[ありがとうございました。『告白』読解も気がつくと開始してから半年が経ちましたが、今年の間には回心の出来事までたどり着けるよう、引き続き進んでゆくことにします。読んでくださっている方の一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

philo1985

philo1985

東京大学博士課程で学んだのち、キリスト者として哲学に取り組んでいる。現在は、Xを通して活動を行っている。

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