【哲学名言】断片から見た世界 『告白』と「存在することの喜び」

アウグスティヌスの思想は、「悔恨と現世否定」に尽きているのか?

私たちはこれまで、自分自身の少年時代のことを振り返るアウグスティヌスが、人間の持つ「罪」の側面について強調し続ける様子をたどってきました。『告白』は果たして、「自らの生涯を物語ることを通して人間性そのものを糾弾する、悔恨と現世否定の書」ということに尽きているのでしょうか。

「わたしは、『あなたの目からはなれて投げこまれていた』、不潔な深淵に気付かなかったのである。すでにそのころ、あなたの目にわたしよりもきたないものがあったであろうか。わたしは、遊楽を好み、愚劣な見世物を見ることを熱望し、芝居の真似をしておちつかず、数えきれないうそをつき……。」

こうした文章を読んでいると、上のような印象を抱くのもあながち行き過ぎではないような気もしてきますが、アウグスティヌスという人の思想はおそらく、それよりも深い奥行きを備えています。今回は、『告白』の少年時代の部分を後にするにあたって、その「奥行き」の内実について考えてみることにしたいと思います。

罪の存在にも関わらず、少年時代に与えられた「恵み」に対する感謝の叫びを上げるアウグスティヌス

とはいえ、まず最初に改めて確認しておかなければならないのは、『告白』とは一面において、アウグスティヌスが自らの犯し続けてきた罪のことを読者たちに対して明かす、悔恨の書にほかならないという事実です。この本のタイトルはかつて『懺悔録』と訳されていたそうですから、このことは否定すべくもありません。

一人の人間、それも、周囲の人々からこの上もない「真理の人」として見られていた哲学者がこのような本を残したわけですから、当時の人々の驚きは非常に大きかったものと思われます。アウグスティヌスといえば「情欲の問題に悩み苦しんだ人」、というのは後世に生きる私たちが共通に抱いているイメージですが、少年時代に関しても、嘘をつく、物を盗む、他人よりも自分が優れていることを誇るなどといった罪や欠点のことが数多く物語られていることは、私たちもすでに見た通りです。

ところが、少年時代の回想を締めくくるにあたってアウグスティヌスが彼の呼びかけの相手である「イエス・キリストの父なる神」に向かって語るのは罪の告白ではなく、自分自身に与えられた「恵み」に対する感謝です。「わたしは少年時代に恵まれていたすべての善のために、賛美の叫び声をあげよう。」彼は一体、何に対してこのような感謝を捧げているのか、このことを振り返る中で、アウグスティヌスという哲学者の思想の特質が改めて浮かび上がってくると言えるのではないか。

「存在することの喜び」:アウグスティヌスは、何に対して感謝を捧げているのか?

アウグスティヌスの言葉に従って、少年時代に与えられた「恵み」を一つ一つ数え上げてみることにしましょう。まず彼は、この世界に生まれ落ちた一人の人間として、確かに「存在」していました。それから、父や母のもとで生存を守られながら生活し、街や木々、海や空といった、この上もなく美しい事物を見ることを始めとする、「感覚することの喜び」を与えられていました。

彼に与えられた教育はこの世での栄達や成功を手にするためのものでしたが、それにも関わらず、その教育のうちには「真理」なるものを少しずつ知ってゆく確かな足取りが含まれていました。友たちとは、時に一緒になって悪さもしましたが、その友情には後になっても決して忘れることのできない、「永遠なるもの」が同時に含まれてもいたはずです。

アウグスティヌス自身の言葉を借りるならば、こうした全てのことを思い返しながら、彼は自分自身に与えられた少年時代について、彼の神に対して「賛美の叫び声を上げる」のです。彼はその時代においてすでに、数多くの罪を犯していました。それでいて、その時代を過ごし終えた彼のもとには、たとえ少年時代だけが彼の人生であったとしても十分すぎるという位に豊かな「恵み」の記憶が残されたのです。

私たち人間存在は、生まれてから死ぬその瞬間に至るまで、絶えることなく罪を犯し続けています。しかしながら、その私たちのもとに届けられ続けるのは同時に「生きるという恵み」であり、「存在することの喜び」に他ならないのです。「死すべき悪人であるはずのわたしが、今日もこうして世界のうちで呼吸し、この道を歩き続けている。」この実存論的な事実をこの上なく鋭い仕方で見通したことによって、『告白』は哲学と文学の歴史にいつまでも残る、一冊の全き古典たりえています。二千年にも近い時を隔てて、2022年の現在を生きている私たちがなお、この本を読み続けているゆえんです。

おわりに

「存在することの喜び」について語ることが困難であるような時代が、やって来ています。「私たち人間存在はひょっとしたら、生まれてくるべきではなかったのではないか。あるいは、この世界なるものは自らが抱え、犯し続けている罪そのものによって、滅んでしまうべきなのではないだろうか。」アウグスティヌスの『告白』は現代の人間のこのような問いかけに対して、何を答えることができるのでしょうか。私たちの読解は少しずつではありますが、はるか先の「取って読め」の出来事に向かって、一歩一歩を歩んでいます。次回からは彼の少年時代を後にして、青年時代の方へ進んでゆくことにしたいと思います。

[今回の記事で、『告白』読解の少年時代編は完結となります。年始にこの本を読み始めてから、一ヶ月が経ちました。正直、連載を始める前には周囲の人々から「こんなに深刻な方向で突き進んでしまって、大丈夫なのか?」と心配されることもなくはなかったのですが、幸いなことに多くの方に読解を共にしていただくことができ、胸をなでおろしています。『告白』という本を通して、人間の生き方について、また、現代という時代について、読者の方と共に改めて考え直す機会が与えられていることには、ただ感謝というほかありません。次回からは青年時代編に入ってゆくことになりますが、気の向いた時だけでも読解にお付き合いいただけるなら、これ以上の喜びはありません。]

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