2月7日 イザヤ53章5節

彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
イザヤ53章5節(参考聖書箇所同書53章1-12節)

紀元前六世紀頃ユダヤはバビロニアによる侵攻を受け、バビロンに囚われとなる捕囚の時代を送ることになります。いつ果てるともしれない民族の苦難は、力をもって自由と解放をもたらす英雄のようなメシアから、苦難を共にし、自らを犠牲にして民族を救うメシア像をつくり出したのでした。イザヤ書五十三章に見る苦難の僕はそのメシアの姿を歌ったものです。 それは弱いメシア、かつ無力なメシアです。しかしながらその無力と弱さによって、人々の苦難を共にするのであり、人々の苦難を引き受けるのです。このメシア像は、新約のキリストにおいて成就することになります。苦難を経、十字架の死を遂げられることによって、人々の苦難を共にし、また人々の苦難を徹底してわが身に引受けてくださるお方をわたしたちはメシアと見るのであります。ある神学者は、聖書の神は「共に苦しむ神である」と言います。苦難の僕を主イエス・をキリストに見るからです。 そのような共に苦しむお方がおいでになるので、前途暗澹たる思いの中で途方に暮れるとき、なお生きる勇気が与えられるのではありませんか。

賀来周一著『365日の聖書――創世記からヨハネの黙示録まで』

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

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