「助けて」といえる社会【ルーテルアワー・聖書講座】

ルーテルアワー・聖書講座 

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「私たちは助けられないと生きていけないのです」と笑顔で、車椅子の男性は高校生の私たちに語り掛けてくださった。夏の高校生キャンプの時の記憶である。小学生の時の国語の時間にアフリカで医療活動を行ったシュバイツアーについて学んで以来、私なりに「誰かを助けたい」という気持ちがあった。しかし、「助けられる」ということについて、ほとんど考えたことがなかったので、「助けられなければ生きていけない」という言葉は、私にひとつの大きな気付きを与えることになった。「人を助けてあげられる人になりなさい」と小さい時から言われ、知らず知らずの内に「助けることは良いこと」と無意識に思っていたが、逆に言えば「助けられることはダメなこと」という潜在的な意識があったことに気付かされたのだ。

天地創造の神が私たちを助けてくださることについて、詩編には次のように記されている。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」(詩編121編1〜2節)雄大でたじろぐことのない山々を見上げて、神の助けも同様に与えられることに信頼するように呼び掛ける。現代の私たちも同じで、そのことを伝えようとしてきたし、私に出来ることは何かを考えてきた。物質的な支援もあるし、ただひたすらに寄り添うことしかできないこともある。それでも神が助けてくださるようにと祈り続けるのが私たちである。しかし忘れてならないことがある。それは神にとってすべての人は「助けを必要とする存在である」ということだ。自分自身が助けを必要とする存在であることを知ることのみが、隣人の相応しい助け手になっていける歩みとなるのではなかろうか。

「中学2年生5.7%、全日制高校2年生4.1%」、これは日本総合研究所が2020年に行った「ヤングケアラーの実態に関する調査研究」で報告されている数字である。17人に1人がヤングケアラーだということになる。家庭内のために対応や把握が難しいという状況があるが、その一方で、子どもたち自身が助けを求めたり相談する手段を知らないということも対応の遅れになっているのだろう。「まわりの人が気付き、声をかけ、手を差し伸べることで、ヤングケアラーが『自分は一人じゃない』『誰かに頼ってもいいんだ』と思える、『子どもが子どもでいられる街』を、みんなでつくっていきませんか」と厚労省のHPで呼び掛けられている。「助けて」と言えない社会ではなく、誰もが「助けて」と言える社会になることを願いたい。何より「助けて!」は神がくださった権利なのだから。

 

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