「役に立っているか」という呪縛 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

Nikolay GeorgievによるPixabayからの画像

私は今年(2022年)の2月に仕事を失い、かろうじて月1、2万円の臨時収入を得ています。それでも必死で働いているのであり、30歳の新卒で16年間働いたその学校では、ほとんど感謝などされず、むしろ迷惑をかけ続けただけなのに、いまは「採譜」にしろ「算数・数学の個人指導」にしろ、感謝されながらやっています。「感謝されることのインフレ」が起きているかのようです。しかし、家族の生計を立てるには役に立っていなかった。家族にはアテにされていなかった。ものすごいショックでした。生きる意味を見失い、病みました。

それが一昨日であり、2年半前に休職をはじめて以来、最もひどい落ち込みでした。これはあくまで病気なので、こうなったら薬を飲んで寝るしかないことはわかっています。一昨日の晩はそうしました。昨日の朝も睡眠だけはしっかり取って目覚めました。しかし、「役に立っていない」ということは、胸に刺さり続けました。「家族のために働いている」と思っていたからこそ働けるのです。「役に立つ」とは何か。迷惑をかけているだけではないのか。

学生時代、東大の学部と院にいて、数学の研究をしていました。専門は低次元トポロジーで、細かく言いますと2次元のトポロジーがメインでした。日本で行われているいわゆる「リーマン面研究集会」はほぼ毎年、聴いていました。そこで発表がなされる研究のほとんどは「役に立たない」ものばかりでした。「それが何の役に立つの?」と言われたら答えようのない研究です。複素平面に切り込みを入れてつなげる研究をなさっている先生もいらっしゃいましたが、これも何の役に立つのかわかりません。決してバカにしているつもりはございません。皆さんそうなのです。私も含めてほぼ全員の研究が、何の役に立つのかわからないものばかりでした。

それを言えば、中学1年で習う「素因数分解」でさえ何の役に立つのかわかりませんし、小学校で「彫刻刀」を習うのも、何の役に立つのかわからないわけです。ですから「役に立つ」「役に立たない」ということがなにを意味するのかはわかりません。私はかつて職場で迷惑ばかりかけていました。給料泥棒だったと思います。私が稼いでいるというより、職場が私に(やむを得ず)払っていたという感じでしょう。その職場も、私をさんざんいじめて、私に「迷惑をかけて」きました。数学が「役に立つ」と言えば「受験で役に立つ」というのが「役に立つ」と言われる場面ですが、それさえ、私のように高学歴でも安定した職業が保証されているとは言えないのであり、「いい大学→いい就職→いい人生」という呪いから逃れるのは容易ではありません。なにをもって「役に立つ」というのか。最後はみんな死ぬではないか……。

自分が「役に立たない」という思いにとらわれ、精神的に落ち込んでいた私は、ある年上の友人に電話しました。彼は安直ななぐさめの言葉にならないように、慎重に言葉を選んで励ましてくださいました。後で知りましたが、彼はその日、仕事を失っていたのです。「腹ぺこさんの声が聞けてよかった。ぼくがぐちを言いたくなったら、こちらから電話するからね」とおっしゃってくださいました。私は「迷惑をかけに電話している」と思っていましたが、「役に立って」いたのです。「迷惑をかける」と「役に立つ」は、区別のつかない表裏一体のものだと気づかされました。

本田哲郎さんの本にも書いてありました。「間もなく亡くなるのがわかっている友人を病室に見舞いに来たとする。どういう言葉をかけてよいかわからなかったが、病室に足を踏み入れたら、その友人は『よく来てくれた!』と歓迎してくれた。この場合、どちらが励ましていると言えるのか」。励ますのと励まされるのも表裏一体です。

すべてこれでよかったのではないか 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

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