2月3日は節分と高山右近の帰天日

 

今日2月3日は節分です。豆まきをして厄払(やくばら)いを行う習慣があります。

ちなみに、キリストはこう言っています。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この(罪を犯した)女に石を投げなさい。……私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない」(ヨハネ8:7、11)

家庭の豆まきで使用する豆とお面(写真:katorisi)

また、1615年2月3日にキリシタン大名だった高山右近(たかやま・うこん)が、国外追放されてマニラに到着した40日後に亡くなりました。

高山右近は1552年、現在で言えば、京都と大阪の府境にある大阪府豊能(とよの)郡豊能町高山で生まれました。やがて7歳の頃、奈良県宇陀(うだ)市榛原(はいばら)にあった原城に移り、64年、13歳の頃に家族とともに洗礼を受けています。洗礼名は「ジュスト」。最初に父親がキリスト教に触れて洗礼を受け、宣教師のヴィレラやロレンソ了斎(りょうさい)を原城に招いて家族を信仰に導いたのです。

高山右近像

1568年、織田信長が足利義昭を15代将軍に据えるために上洛すると、室町幕府の幕臣だった和田惟政(わだ・これまさ)が摂津(せっつ、兵庫と大阪が接する一帯)の高槻城主に任じられました。高山家はその下で仕えることになり、高槻城にほど近い芥川(あくたがわ)城へと転ずることになります。

惟政はキリスト教の協力者でしたが、その3年後、荒木村重(あらき・むらしげ)に敗れて討ち死にし、その後、摂津は村重のものとして信長に認められます。年若くしてあとを継いだ惟政の子、惟長(これなが)は家臣にそそのかされるかたちで高山父子暗殺を企て、そのことを知った右近たちは村重と相談のうえ惟長を討ちました。その後間もなく右近は父から家督を譲られて、22歳にして高槻城主となります。1573年のことです。

右近は惟長と斬り合いになったとき、瀕死の重傷を負いましたが、奇跡的に助かったことから、以後、熱心なキリシタン大名として領内のキリスト教化に努めるようになりました。

1578年、荒木村重が信長に謀叛(むほん)を起こし、翻意を促しに行った黒田官兵衛が有岡(ありおか)城に囚われる事件が起こります。これに対して非常な危機感を抱いた信長は、摂津全体が寝返らないよう、宣教師や右近に対し、キリシタン滅亡か味方につくかという二者択一を迫ります。右近は、村重の人質となっていた家族や、意見が真っ二つに割れた城内のことを考え、悩み苦しんだ挙げ句、自ら城主をやめ、信長のもとに身一つで出ていきました。

ところが、この結果、村重は孤立無援となり、やがて有岡城は落ち、高槻城も信長に従って開城、人質だった息子たちも無事に助かったのです。こうして信長は以後、右近もキリスト教も優遇するようになり、右近は高槻領内だけでなく、大名仲間にも大きな感化を与える存在となっていきました。

信長のあとを継いだ豊臣秀吉によって、1585年、右近は領地を高槻から明石へと移されます。そして、その2年後に「バテレン追放令」が出されると、右近は秀吉から棄教を迫られるのです。しかし、右近は領地を返上して、信仰を取りました。その後、小西行長(こにし・ゆきなが)によって小豆島(しょうどしま)にかくまわれたのち、88年、秀吉の盟友でもあった前田利家(まえだ・としいえ)に招かれて加賀藩で宣教と茶道の日々を送ることになります。

やがて1614年、家康によってキリシタン国外追放令が出されると、右近は家族とともにマニラに渡りますが、間もなく病没。63歳でした。

 






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