【断片から見た世界】『告白』を読む 「『自己』の真実」

哲学の営みは、「絶望」の問題にどのように関わるか?

「生きることの無意味」 の問題をめぐって苦しんでいたアウグスティヌスは、シンプリキアヌスなる人物のもとを訪れました。

「それで、わたしはシンプリキアヌスを訪れたのであるが、かれは当時司教であったが、アンブロシウスがあなたの洗礼の恵みをうけたとき父の役をつとめ、アンブロシウスもほんとうに自分の父親のように敬愛していた。わたしはこのシンプリキアヌスにわたしの迷誤と彷徨の次第を語った……。」

2023年の現在において哲学することへと向かっている私たちは、この出来事から何を学び取ることができるのだろうか。今回の記事では、『告白』の言葉に耳を傾けつつ、哲学の営みと「絶望」の関係について考えてみることにします。

シンプリキアヌスと新プラトン主義:「ミラノのサークル」をめぐる当時の状況

上に引用した箇所は、次のように続けられています。

『告白』第八巻第二章:
「わたしはこのシンプリキアヌスにわたしの迷誤と彷徨の次第を語った。しかしわたしが、かつてローマで弁論術を教え、のちにキリスト者となって死んだと聞くウィクトリヌスがラテン語に翻訳したプラトン派の諸書を読んだと語ったとき、シンプリキアヌスは、わたしが他の哲学者たちの書に触れなかったことを喜んだ。かれによればこれらの書物は『この世の浅い知恵に従って』、虚偽と欺瞞に満ちていたが、かのプラトン派の書物はあらゆる仕方で神とその御言の信仰に導くものであった……。」

ここに言う「プラトン派の諸書」とは、いわゆる「新プラトン主義」の哲学の祖とされるプロティノスに関連する書物のことを指しています。事態を二点に分けて整理してみます。

『告白』が書かれた当時のミラノには、新プラトン主義の哲学を経てキリスト教の信仰へと至った人々が多数存在していました。プロティノスの哲学は、思惟の活動を通して万物の根源に位置する〈一者〉を追い求めることで、同時に自分自身の「真実の自己」へとたどり着くことを目指すものでしたが、この哲学はいわば、ギリシアに始まった古代哲学の総決算とでも言うべき性格を備えたものでした。『告白』においては司教アンブロシウス、シンプリキアヌス、ウィクトリヌスといった人々の名が挙がっていますが、三十代初めの頃のアウグスティヌスもまた、絶望のただ中でプロティノスの書物に出会い、「神の愛」の問題に突き当たった人々の内の一人であったといえます(cf.20世紀後半のアウグスティヌス研究において注目された「ミラノのサークル」の存在は、哲学の歴史そのものの流れを捉え直す上でも示唆的なものなのではないかと思われる)。

② 従って、これらの人々にとっては、「信仰を持つ」という生き方はあくまでも、「哲学=真実の知恵の探求」の延長線上にあるものと捉えられていたといえます。これから見てゆくように、アウグスティヌスが経験した「回心」の出来事には「選択し、決断する」というモメントが深く関わっています。そのため、彼が直面することになる実存の苦しみは、必然的に新プラトン主義の哲学の守備範囲を越え出てゆくことになりますが、それでもこの苦しみはいわば、哲学そのものが向き合わなければならない苦しみとして経験されていたのではないだろうか。哲学の営みは、「生きることの無意味」という危機に突き当たりながらも、自分自身が生きていることの根源を問い求めつつ、「真実の幸福」に向かって突き抜けてゆかなければならない。シンプリキアヌスやウィクトリヌスといった先人たちは、アウグスティヌスにとって、まさしくそのような道のりを彼よりも先に歩み抜いた人々として捉えられていたものと思われます。

「外に出てゆかず、きみ自身のうちに帰れ」:「絶望」からの出口は存在するのか?

問い:
哲学の営みには、「絶望」からの出口を見出だすことが可能であるのか?

キルケゴールも指摘しているように、「絶望」なるものの厄介なところは、絶望している当人にとってすらも、少なくとも最初はその正体が明確に分からないことにあるのではないか。極度に強い不安を持つ人は、「わたしはなぜこんなにも不安を抱いているのか?」という疑問を抱くことがありますが、絶望の場合もそれにも似て、「結局のところ、わたしは一体、何に対して絶望しているのか?」という問いに対しては、明確な答えが与えられないことも決して稀ではありません。事柄が生きることそのもの、世界内存在そのものに関わってくるだけに、そうしたもの全体の「無意味」に襲われる病であるところの「絶望」もまた、個々の存在者や出来事ではなく、その本質からして人間の現存在そのものに襲いかかるものであると言うこともできるのかもしれません。

ここで、今回取り上げた『告白』の箇所との関連において注目しておきたいのは、古代の哲学は、「生きることの無意味」の問題に対して、「『真実の自己』に至ることを通して病から癒される」という可能性を対置していたという点に他なりません。「真実の自己」なる主題に関して、2023年の現在における哲学に何が言いうるのかを即座に見定めることは難しそうですが、とりあえず指摘できるのは、古代から中世にかけての哲学にとって、「死に至る病」であるところの「絶望」からの解放は、「内面への還帰」なるモメントを通してこそ実現されるものと捉えられていたという点なのではないか。

「外に出てゆかず、きみ自身のうちに帰れ。真理は人間の内部に宿っている。そしてもしも、きみの本性が変わりゆくものであることを見いだすなら、きみ自身を超えてゆきなさい。」回心の出来事を経験した後のアウグスティヌスによって語られたこの言葉の目指すところは、新プラトン主義の哲学が向かおうとした方向とも重なり合うものです。自分自身の「心」に向き合うこと、そのことを通して、自らが生き、存在していることの根源に触れるという可能性に、回心を直前に控えていた時期の彼は出会いました。哲学する人間には、それまで得てきたもの、生きてきた環境の全てを疑問に付しつつ、自らの心に巣食っている「病」に向き合わねばならないといったことも起こりうる。彼あるいは彼女には、外に出てゆかず、自分自身の内に帰ってゆくことを通して、「自己」なるものの真実のもとにたどり着くことが求められるのではないか。哲学の言葉が告げているように、心を喰い尽くす「病」を乗り越えていった先には、「真の幸福」のような何物かが待っているのだろうか。「真理は人間の内部に宿っている」というアウグスティヌスの言葉は、2023年の現在において哲学することへと向かっている私たちにとって、いかなる意味を持ちうるのか。「絶望からの出口」なるテーマをめぐって展開されるこうした問題の帰趨に関しては、これから時間をかけて探ってゆくことになりそうです。

おわりに

「あなた自身の井戸から水を汲み、あなた自身の泉から湧く水を飲め」と信仰の書は語っていますが、人間の「心」というテーマについては、二千年以上にわたる哲学の営みもまた、絶えず多くのことを語り続けてきたことは確かです。私たちとしては引き続き、『告白』を導きの糸としながら探求を続けてみることにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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