【哲学名言】断片から見た世界 『告白』の物語が始まる

『告白』の物語が始まる:アウグスティヌスは神に呼びかけつつ、自分自身の幼年期を振り返る

私たちはこれから、『告白』の物語の内側へと踏み入ってゆこうとしています。まずは、この本の著者のアウグスティヌスが、自らの幼年時代について語っている箇所から読み進めてゆくことにしましょう。

「天地の主よ、わたしはあなたに告白して、わたしが記憶しないわたしの存在のはじめと幼年期とについて、あなたに賛美を述べよう。あなたは人間に、それらのことを、他人をもとに自分について推測し、そして多くのことを、[…]自分について信ずることを許してくださったのである。すなわち、わたしはその時期にさえも、存在し、生きていたのであって、幼年期の終わりにはもうすでに、わたしは何か合図をし自分が心に思うところのことを他人に知らせようとつとめていた。このような生命をもつものは、主よ、あなたからでないなら、どこからおこるであろうか。」

今回の箇所でアウグスティヌスが語るのは、彼がいまだ言葉を語ることも、理解することさえもできない幼児であった頃のことです。人間存在の生き方について探求する「真実の書」であるところの『告白』は一体、この時期について何を語るのでしょうか。

「私たちがまだ、物心もついていなかった頃には……。」:アウグスティヌスが語る、人間の幼年時代

幼年時代について語る際にアウグスティヌスが強調すること、それは、彼は他のすべての人々と同じように、この時期についての記憶をほとんど持っていない、という事実にほかなりません。

私たち人間はみな、自分自身で生まれてこようと望んだわけではなく、自分自身の「存在」をどこかから与えられるかのようにして、この世界に生まれてきます。最初は今のように周囲の人々の語っていることも、物事の成り立ちや仕組みも理解することができず、ただ、生きてゆくための糧を求めて、母なる存在(後に見るように、アウグスティヌスにとって、母の存在は彼が本当の意味において彼自身という人間になってゆく上で、特に彼が大人になって以降に非常に大きな役割を果たすことになりました)を呼び求めるだけでした。

そして、上で述べたように、私たち人間はみな、自分の力で生きてゆくことのできない「よるべない存在」であったこの時期のことを、ほとんど記憶してはいません。「物心がつく」とはこの点、非常に巧みな言い方なのであって、私たちはみな「物心がつく」ようになるまでは、まるで未だこの世に生まれてきてはいないかのような時期を過ごしたはずです。「はず」というのは、上に引用した箇所を始めとしてアウグスティヌスもたびたび強調しているように、私たちはその時期について直接的な認識や記憶を持っているというわけではなく、ただ、日常のうちで赤ん坊や幼子たちに出会うことを通して、「ああ、わたしも以前はきっとこのようであったのだろう」と想像を巡らすことができるに過ぎないからです。

『告白』の構造:私たちはアウグスティヌスの物語のうちで、他の誰でもない、自分自身の生の真実を再発見する

それでは、アウグスティヌスは一体なぜわざわざこのようなことを、自伝の最初の部分で語ったのでしょうか。それは、『告白』の読者に対して「私たち人間は、自分自身の存在すらも自分で与えることのできないような、か弱く、よるべない存在であるに過ぎないのだ」ということを、改めて思い起こさせるためにほかなりません(哲学に通じている方の中にはここで、20世紀の哲学者によって提出された「被投性」という概念のことを思い出す方もいるかもしれません)。

すでに見たように、アウグスティヌスは『告白』を自分のためにではなく、彼の人生の物語について知ることを熱烈に求めている、彼の隣人たちのために書きました。『告白』はすべての本質的な自伝的書物と同じく、次のような構造を持っています。すなわち、アウグスティヌスはこの本の中でただひたすらに、他の誰でもない自分自身の人生がたどった道のりについて語り続けるのですが、『告白』の読者はこの本を読み進めることのうちで、他の誰でもない、読者自身の人生の真実をそこに発見することになるのです。

「この本のうちには驚いたことに、わたし自身のことが語られている。わたしは、彼が語っている彼自身の人生のうちに、わたし自身の描き出された姿を見出す。」このような神秘の構造を持っているからこそ、『告白』は古代から現代に至るまで、人間が自分自身を探し求めるための「真実の書」として読まれ続けてきたのでしょう。アウグスティヌスが語るのは彼自身の幼年時代ではなくて、すべての人間の幼年時代です。私たちはこの本のページをめくることによって、生き続けてゆくためには糧や隣人たちの存在を切実に必要としている、私たち自身の抱えている弱さ(「根源的にして、存在論的な弱さ」)を再発見するのです。

おわりに

アウグスティヌスにとっては、彼の「よるべない存在」を究極の所で支えていたのは母や隣人たちを超えたところに存在する、天地の造り主なる神にほかなりませんでした。そのことについては後に論じることにするとしても、まるで鏡の中に映すようにして自己自身の姿を見つめ直す自伝という文学形式には、何か無限に深いものがあると言わざるをえません。人をして、「ここには、わたしがいる」と言わせずにはおかないような本は世の中にそれほど多くあるわけではありませんが、そのような意味において稀にして困難な書物の一つである『告白』について、さらに読解を進めてゆくことにしたいと思います。物語は、自分自身でさえも記憶を持つことのない幼年時代から、アウグスティヌスの自意識がはじめて芽生えることになる少年時代の方へと移ってゆくことになります。

[『告白』読解の第一回は多くの方に読んでいただき、ありがとうございました。コラム筆者とクリスチャンプレス編集者ともども、この「断片から見た世界」の『告白』読解を人間の生き方の問題について改めて向き合い、分かち合う機会にできたらと望んでいます。このコラムは毎週月曜日に更新になりますが、気の向いた週だけでも読解にお付き合いいただけるなら、これ以上の喜びはありません。]

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