第7章 傷つけ、傷つけられる牧師 「キリストに仕える」実感を味わう 細川勝利 【ジセダイの牧師と信徒への手紙】

「傷ついた」に甘んじる

牧師の仕事は、み言葉を伝え、祈り、自らみ言葉に生きることである。もちろん、いつも愛をもってみ言葉を語ることは言うまでもない。しかし、どんなに語る側が愛をもって、教会全体や一人ひとりに語ったとしても、「私は牧師のあの言葉によって傷つけられた」とか「私は牧師のあの態度によって傷ついた」という人がいないとは限らないのである。

だから、牧師が語る言葉にもなす態度にも、主の憐れみによって聖別していただくよう祈らねばならないのは当然である。が、それでも「牧師に傷つけられた」「牧師に傷ついた」は避けられない。

それは伝道者に与えられた光栄ある冠ではないだろうか。歴史の中で誰が一番「人から傷つけられた」と言われるかを考えれば、答えは明白である。それは主イエスである。主は100パーセント完全な愛をもって人に接し、その愛を示し、愛を全うされた。しかし、主イエスは人々からは愛がない、真実ではない、厳しすぎる、罪を糾弾ばかりすると批判された。主イエスの生涯は愛の生涯であったが、一方ユダヤ人たちからは「イエスに傷つけられた」と言われる生涯でもあった。

これが、人を愛するという現実である。愛しても「愛してくれている」と理解されず、「傷つけられた」と理解されるのである。それでもなお、変わらずに愛し続けるのが主イエスの愛である。だから伝道者がこの主イエスの愛を伝えようとする時、伝道者が「牧師に傷つけられた」と言われることは避けられないのである。

その意味で、「傷つけられた」と言われることは主イエスの苦しみ、また愛を少しでも味わうという光栄なことである。だから、人から「傷つけられた」と言われることに甘んじることである。別の言い方をすれば、「傷つける牧師」と言われることに甘んじることである。

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「傷つけられる」仕事

ついでに一つ加えると、伝道者自身が「人から傷つけられた」ということで悩む時は伝道者を辞めるといい。実際、「牧師に傷つけられた」と大手を振って言える信徒から、牧師も立ち上がれないほど傷つくことがあるのである。これは信徒の人はよく心に留めておく必要がある。

しかし、それはそれとして、伝道者はある面で人々から傷つけられるのが仕事であると言える。先述したように、主イエスほど人々から傷つけられた方はいない。誕生から、十字架にかかるまで、いや十字架上でも、道行く人から、同じ十字架にかかっている人からも傷つけられた。主イエスにとって、傷つけられることなしに贖いのみ業を完成することができなかったのである。

同様に、我々伝道者もこの主イエスの贖いの業を伝えようとする時、人々から傷つけられるのである。だからもし、「傷つけられた」ことで悩み、耐えられなければ、この仕事は不可能である。そういう意味で「傷つけられた」ことで悩むなら、伝道者を辞める以外にはない。そうならないために、「傷つけられ」て大喜びとはいかないまでも、「キリストに仕えている」という実感を味わいたいのである。

前任者に敬意を

蛇足を一つ。伝道者はどうしても前任者と比較されるし、自らもいつも前任者を意識することは避けられない、その際、伝道者は自ら前任者を批判するよりも尊敬することである。この点でも小生は失敗をした。赴任する時、何でも思うようにするようにと言われ、愚かにも思うままに語り行おうとした。しかし、これは大きな失敗だったと反省している。やはり、全力を尽くして奉仕してきた前任者への尊敬を大切にすることである。

昔、熊本に入城する時、細川忠興は、前城主の加藤清正の位牌を先頭に進ませ、清正の墓所で平伏したという。それが統治の難しい熊本を治め、幕末まで続く基礎となったと言われている。伝道者は、もちろん前任者の前に平伏すことはないが、誠意をもって尊敬することである。

(つづく)

ほそかわ・しょうり 1944年香川県生まれ。東京で浪人中、63年にキリスト者学生会(KGK)のクリスマスで信仰に導かれる。聖書神学舎卒後、72年から日本福音キリスト教会連合(JECA)浜田山キリスト教会、北栄キリスト教会、那珂湊(なかみなと)キリスト教会、緑が丘福音教会、糸井福音教会、日本長老教会辰口キリスト教会、パリ、ウィーン、ブリュッセル、各日本語教会で牧会。著書に『落ちこぼれ牧師、奮闘す!』(PHP出版)、『人生にビューティフル・ショット』『21世紀をになうキリスト者へ』(いのちのことば社)など。

【ジセダイの牧師と信徒への手紙】 第6章 牧師と教会のカンケイ 行き先も知らずに出発する 細川勝利 2014年5月17日

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