「信じて救われる」は不公平? 白井幸子 【教会では聞けない?ぶっちゃけQ&A】

Q.品行方正な善人も凶悪な犯罪者も、信じれば救われるなんて不公平ではありませんか。(30代・女性)

ヨハネによる福音書8章に次のような記事があります。ある時ユダヤ教の指導者が、姦淫の罪を犯した女性を連れてきてみんなの前に立たせ、イエスにこう言いました。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(5節)。

イエスはかがみ込んで地面に何か書き始めましたが、彼らがしつこく問い続けるので身を起こして、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました(7節)。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去って、ついにはイエスと女以外にだれもいなくなった、ということです。

大部分の人が心中ひそかに「自分は善人である」と考えるでありましょう。「凶悪な犯罪者も信じれば救われる」という言葉に不公平感を持つのは、人間の自然な感情とも思われます。しかし、聖書の人間を見る目は厳しく、「善を行う者はいない。一人もいない」と言います(詩編14編3節)。

イエスが最も重要な戒めとして語ったことは、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカによる福音書10章27節)ということでした。しかし、「私はこの教えを守っています」と言うことのできる人がどこにいるでしょうか。

善人はイエスを必要としないはずです。しかし、すべての人が罪を犯したから、イエスはすべての人の救いのために死んでくださったと聖書は語ります(ローマの信徒への手紙5章)。

「もし、私が救われるのなら、すべての人が救われるであろう。また、もし、すべての人が救われるのなら私も救われるであろう」とは、自分の罪に深刻に苦しんだ内村鑑三の言葉です。

イエス・キリストが凶悪な犯罪者も救ってくださる神の子であることに、私たちの望みがあるのではないでしょうか。

*本稿は既刊シリーズには未収録のQ&Aです。

しらい・さちこ 青山学院大学文学部を卒業後、フルブライト交換留学生として渡米。アンドヴァー・ニュートン神学校、エール大学神学部卒業。東京いのちの電話主事、国立療養所多磨全生園カウンセラー、東京医科大学付属病院でHIVカウンセリングに従事した後、ルーテル学院大学大学院教授を経て同大名誉教授。臨床心理士、米国UCC教会牧師。

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