主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
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聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、列王記第一の13章です。よろしくどうぞ。
列王記第一 13章33節
このことがあった後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることをせず、引き続き一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願するものを任職して高き所の祭司にした。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
列王記にはたくさんの王様が登場しますが、聖書は彼らを明確に「良い王様」と「悪い王様」に分類しています。「良い王様」は神様の言いつけを守る王様で、「悪い王様」は神様の言いつけよりも自分の判断を重視する王様でした。
ここに登場するヤロブアムは「悪い王様」タイプの人でしたが、その悪さの例として「誰でも志願するものを任職して」と書いてあります。つまり人事権の扱い方について、神様から「これはダメだぞヤロブアム」と指摘されているんです。
「志願する者を、一般の民からでも任職する」というのは、現代の価値観からすると悪いことには思えません。現代は「誰でも望んで努力すれば何者にでもなれる」という時代(少なくとも建前上は)ですから。野球選手になりたいと望んで努力をして結果を出せば野球選手になれますし、今の日本では誰であっても(公民権の停止などごく一部の例外はありますが)政治家になり、総理大臣にだってなれます。そしてそれは一般的には良いことだとされていますし、僕も基本的には同意します。
しかし聖書は「望んだからといって任せてはならない職がある」と言っているんです。ヤロブアムは「やりたい奴がやりたい仕事に就ける、いいことじゃないか」と考えたのだと思いますが、神様は「それはいかん!」と言います。人が「やりたい」とか「やらせたい」で与えてはならない職というのがあるのだと言います。これは考え方によっては身分差別につながる考え方です。人に、生まれながらに就けない職があるというのは、現代社会では決して好ましいとはされない考え方です。
しかし、よくよく考えてみれば、人には誰しも「生まれながらに就けない職」があるものです。たとえば僕は生まれつき足が不自由ですから野球選手というのは僕にとっては「生まれながらに就けない職」です。色弱でもありますから、パイロットやカラーコーディネーターもそうでしょう。現代社会では「人は何者にでもなれる」という建前が流布されていますが、実際には人は何者にでもなれるわけではありません。スプーンが「僕は肉を切る仕事に就きたいんだ」と言っても、それはナイフの役割です。スプーンにはスープを飲むとか、ビビンバを食べるとか、別の尊い役割があるんですから、そっちに注力すべきです。
教会の牧師というのも、また別の意味で「望んだからと言って任せてはならない職」です。「牧師になりたい」という個人の意志だけで任せてはいけない職なんです。牧師になるには「Calling(招命)」という体験が必要です。それは簡単に言えば神様から「君は牧師になりなさい」と言われることです。反対に言えば、もしそれを受けてしまったら、個人の意志で「牧師になんてなりたくない」と思っていたとしても、牧師にならなければいけないということでもあります。ただこの「Calling」というのは非常に個人的な体験ですから、他の人から客観的に観測することは多くの場合はできません。ですから牧師になるための試験で「あなたはCallingを受けたのですね?」という質問に「はい」と答えさえすれば、なかなか人間の目にそれが嘘か本当か見抜くことは難しいものです。でも自分ではわかっているはずです。
それは実は牧師に限った話ではありません。伝道師でも音楽家でも、神様や教会に奉仕する職にはすべて「Calling」が必要なのであって、「なりたい」「やりたい」「やらせたい」でなってよいものではないんです。それは教会にお花を飾るとか、礼拝後のランチの準備をするとか、そういった「小さい」仕事についてだって同じです。神様のため、教会のために何かをするには、常に僕たちは「この仕事について、自分にはCallingがあるのか」と問い続ける必要があります。
一般社会でも似たようなことは実は多々あります。世には「なりたがる」人が多い職がありますが、そういった職は実は「なりたがる」人には最も不向きであったりします。たとえばリーダー的な職というのは、「なりたがる」人が多いものですが、リーダーになりたがる人というのは、時として独善に陥ったり、権力を恣意的に振り回したりして、よいリーダーにならないものです。「なりたがる」人には決して与えてはいけない椅子というのが、世の中にはたくさんあるんです。牧師というのはいわば教会のリーダーですから、これと同じことが言えます。「なりたがる」牧師は独善に陥ったり、権力を恣意的に振り回したりする危険性が高いものです。そしてもちろん、政治家だってそうです。僕は政治家ほど「なりがたる」人にやらせてはいけない職はないのではないかと思っています。しかし日本の制度ではなりたがらなければ、つまり立候補しなければ、政治家になることができません。これはもしかして根源的な制度欠陥なのではないかと考えたりもします。とはいえ、そう簡単に制度を変えることはできませんし、そもそも立候補制に代わる政治家の選出方法をなかなか思いつきません。推薦制にしたところで、結局は名ばかりの推薦で、事実上の立候補制と変わらないでしょうしね。でもせめて政治家を選ぶときに、この人は「なりたがっている」だけなのか、それとも「なるべき」人なのか、そういう視点を持つことは大切かと思います。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
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