主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
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聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、エゼキエル書の46章です。よろしくどうぞ。
エゼキエル書 46章18節
君主は、民の相続地を奪って民をその所有地から追い出してはならない。彼は自分の所有地から、息子たちに相続地を受け継がせなければならない。それは、わたしの民がその所有地から一人でも散らされないようにするためである。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
旧約聖書に書いてある決まり、つまり律法は現代人には関係のないもののように思えたりもしますが、実は現代の法にも通じるものが多々あります。今日引用した箇所は民の土地所有権について規定しているものと言えます。つまり、王といえども民の土地の権利を主張できないということです。これは現代、とくに日本では「あたりまえ」のように思えますが、歴史を紐解けば決してあたりまえのことではありません。
王や国家権力が民の財産を勝手に奪ってしまうようなことは、歴史上いくらでもありますし、わざわざ歴史を見なくとも、現代でも国によっては行われていることです。たとえば現代でも中国では民が土地を所有することはできません。民が得ることができるのは簡単にいえば土地の使用権だけであって、あくまで土地は国のものですから国はその使用権を停止しようと思えばいつでもすることができます。一方で現代の日本では国家といえども個人所有の土地を勝手に使用することはできませんし、その所有権を勝手に喪失させることもできません。個人所有の土地を国家が使いたければ、お金を出してその所有権を買い取らなければなりません。江戸時代までは日本でも武家の領地替えのようなことが行われていました。これは領主といえども持っているのは土地の管理権や収益権だけであって、幕府の意向次第でそれはいつでも奪われたり交換されたりするということでした。
というわけで、民が土地を所有するということは割と最近になって、民主主義国家では「あたりまえ」のことになったものなのですが、聖書は2500年も前から国家に脅かされない土地所有権を認めています。
さらに後段は「わたしの民が散らされないように」と、民の生存権を認めています。わかりやすくいえば「この国で民が生活する権利を奪ってはならない」ということです。生存権をはじめとする人権という概念が登場するのは近世以降だと思われがちですが、実は旧約聖書をよく読むとすでに2500年前からそれに等しい、あるいは近い概念が記されていることがわかります。現代日本人は不動産を持たなくても収入を得ることができますし、不動産を持たない人もたくさんいますが、当時の人にとって土地とは収益を得るために必須でした。ですから土地の権利を守ることは生存権を守ることに直結していたのでした。
さらに深く考えれば、土地というのは作物を生み出すものです。人間が大地の恵み、つまり神様の恵みを受け取るための媒体であるということができます。人間は土地や海といった自然から恵みを受け取ることなしに生きることはできません。ということは、神があらゆる人に土地の権利を認め、それをいかなる権力者であっても奪ってはならないとしたことは、いかなる権力者であっても人が神の恵みを受けることを妨げてはならない、ということになります。神の恵みは身分の高低を問わず、あらゆる人に与えられていて、そして誰であってもそれを奪うことはできないんです。
現代でも土地やそれにまつわる諸権利は人が生きる上で欠かせない権利です。必ずしも作物をそこから得るわけではないでしょうが、住居としての場所がなければ人は生きることができませんから、土地の権利が生存に直結することに変わりはありません。近年、その生存に直結する権利についての扱いが、少しずつ歪なものになっているように思います。一部の過剰な投資による高騰のため、生活のために必須な土地でさえ人が得ることが困難になっています。不動産に関する権利は現代社会では収益権のように扱われがちですし、その一面ももちろんあるのですが、同時に生存権でもあることには政治家の方々にも留意していただきたいと思います。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
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