主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、ガラテヤ人への手紙の4章です。よろしくどうぞ。
ガラテヤ人への手紙 4章7節
ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
「子」という身分はある意味での特権階級だと言えます。「親ガチャ」なんて言葉がいくらか前に流行しましたけれど、ある親の子として生まれただけで、「子」としての特権を得ている人たちが、古今東西、たくさんいるものです。政治家の子、大企業の創業者の子、芸能人の子、スポーツ選手の子・・・「子」としての特権は現代社会を見渡せばたくさんあります。もちろん特権だけでなく、「子」としての責務というものもあるでしょうし、それは外から見るよりもずっと重いものかも知れません。しかしそれも含めて「子」であるという地位は、他に替えの効かない重要な地位です。総理大臣なら「交代」ということもあり得ますし、実際にしょっちゅう交代されていますけれど、「子」は交代されることがありません。その代わり自分の実力で誰かの子になることも原則としてはできません。
僕もそうですし、これを読んでくださる人たちの多くも、人が羨むような親の子に生まれてはいないかもしれませんし、七色に光り輝く「子」としての地位を持ったりもしていないかもしれません。しかし、総理大臣よりも大統領よりも世界に冠たるあの巨大企業の社長よりも、よっぽどえらい神様が「君は私の子である」と宣言しています。つまり神様にとって僕たち人間ひとりひとりが、交代のあり得ない、換えの効かない唯一無二の存在であり、愛する存在であるということです。そして神様の創り上げた、あるいはこれから創り上げるすべての遺産の相続人であるということです。
クリスチャンの中には、まるで自分が「神様」を社長とした「教会」という会社の従業員であるかのように振る舞っている方がいます。「教会に貢献しなければ」「クリスチャンとしてふさわしい行動をしなくては」と、自分で自分を追い立ててしまっているような方がいます。しかしそんなことはしなくていいんです。従業員なら業績が悪かったり素行が悪かったりすればクビになるかもしれません。しかしクリスチャンは従業員ではなく、子なんです。業績が悪くてもクビになることはありません。素行が悪ければ叱られたりすることはあるでしょうが、クビになることはありません。なぜなら何度も言いますが「子である」ということは、誰にも交代のできない、絶対的かつ特権的な地位であるからです。
従業員は大きな会社であればあるほど、なかなか社長と話をすることはできません。しかし、子は折に触れて親である社長と話すことができます。意見を言うこともできます。要望だって言いやすい立場にあります。クリスチャンは神の子であるが故に、いつでも祈りを通して神様に意見を言うことも要望を言うこともできます。なんなら他愛のない話をして笑い合うことだってできます。
とはいえ、すべての人が神の子とされているわけではありません。神の子とされるのは、神の子であることを認め、神様を父と呼ぶ人、すなわちクリスチャンだけです。ノンクリスチャンの方は神様から「いつでもうちの子になりなー」と誘われてはいるけれども、まだ「でもなー、どうしようかなー」と、その誘いに応じていない状態です。
考えてみれば信仰の対象を「父」と呼ぶ宗教って、あんまり他にないですよね。仏教でも仏様を「父」と呼ぶのは聞いたことがありませんし、神社でもそんな光景はみたことがありません。ユダヤ教でもイスラム教でも神様を「主」や「アッラー」とは呼んでもあまり「父」とは呼びません。
クリスチャンは神様を「父」と呼ぶ特権を持っているんです。ですからクリスチャンはもっと積極的に神様を「おとうさーん」とか「パパー」とか、親しみをもって話しかけて良いのですし、その方がいいです。神様だって、娘や息子から「お父さん」と呼ばれず「社長」と呼ばれるのはたぶんちょっと寂しい気持ちになるでしょうから。
主にありて。
MAROでした。
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