指導者の視点と国民の視点【聖書からよもやま話571】

主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、イザヤ書の8章です。よろしくどうぞ。

イザヤ書 8章12節

あなたがたは、この民が謀反と呼ぶことを何一つ謀反と呼ぶな。
この民が恐れるものを恐れてはならない。おびえてはならない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

神様はイザヤや国の指導者に向けて「民が恐れるものを恐れるな」と言いました。「謀反」という物騒な単語も出てきていますが、「多くの人が『謀反』と言っても、それが本当に謀反であるとは限らない」というような意味でしょうか。

国の指導者と国民とは、見える景色が異なります。国民が脅威に思っているものが、必ずしも指導者の目に脅威に映っているかはわかりませんし、国民が恐れていないものが、実は指導者にとっては脅威であったりもします。

現在、日本では総理大臣が選挙での大敗を受けて「辞任すべきだ」「いや、留任すべきだ」との議論の真っ只中にいます。「留任することは民意を無視することであるから謀反に等しい」というようなことを主張する方もいます。しかし総理ご本人は「留任する」という決意を固めていらっしゃるようです。総理はプロテスタントのクリスチャンであるようですから、もしかしたら今日引用したこの箇所を心に留めていらっしゃるのじゃないか、なんてちょっと思いました。

難しいですよね。国民から政治のことは見えないことが多々ありますし、反対に政治の世界から国民の生活が見えていないことも多々あるように思えます。しかし、当時のイスラエルと現代日本では政治理念が異なります。国民主権を憲法に掲げる現代日本においては、民意がいわば「最高議決」です。「大事なことは指導者が決める。民はついてこい」という政治体制ではありません。もしかしたら総理には僕たち国民には見えていない脅威が見えているのかもしれません。それゆえに「やめるわけにはいかない」と言っているのかもしれません。

やめるべきだと思うにせよ、やめるべきでないと思うにせよ、指導者には僕たちには計り知れない、想像できないような悩みと葛藤を背負っていらっしゃるんだろうなということには、感謝と敬意を示したいと思います。今も昔も西も東も、リーダーを務めるというのは難しく、そしてしんどいことなのだと思います。

主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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