主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、出エジプト記の25章です。よろしくどうぞ。
出エジプト記 25章2節
あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
神様が祭司たちに向けたことばです。祭司は民から神へと献げられたものを「受け取らなければならない」と書いてあります。受け取ることができる、ではなく、受け取らなければならない、です。現代日本の法律でも「〜〜することができる」と「〜〜しなければならない」は明確に区別されています。もちろん法律に限らず一般的な日本語としてもそうなんですけれど。「〜〜することができる」は「〜〜しないこともできる」ということであり、それをするかしないかの判断は当事者に委ねられています。一方「〜〜しなければならない」にはその判断権限が当事者には与えられていません。
これを現代の教会にあてはめれば、教会は信徒からの献金や献品を「受け取ることができる」ではなく、「受け取らなければならない」ということになります。つまり信徒から献げられた財産を適切に管理することは神様から教会に命じられた仕事の一つだということになります。当たり前のことのようですけれど、改めてこれを認識するのは大切なことだと思います。教会は献げられたものを拒否してはいけないんです。それは献げる人ではなく、神様が教会に与えたものでもあるからです。
一方で「進んで献げる心のある人から」とも書いてあります。いやいや献げられた金品は受け取るべきではないということかと思います。神様も人がいやいやとかしぶしぶとか献げるものは受け取りたくないということでしょう。だから教会は献金を信徒に強制してはいけないんです。強制すればそれは「進んで献げる心のある人から」のものではなくなってしまうからです。「献金目標:○○円!」というのも、それ自体は直接的には強制ではなくとも暗黙の強制力として機能してしまいますからやめた方がいいのかもしれません。もちろんいわゆる同調圧力なようなもので献金を促す、あるいは間接的に促されてしまうようなことも避けた方がいいのかと思います。
そして、それを献げる僕たちとしては、「進んで献げる」ことが重要です。自分がいやいやしぶしぶ献げていないか、自分の気持ちを見直す必要があるかと思います。つい献金っって、どこか「義務」のように思えてきたりしてしまうものです。しかし本当は「権利」なんです。推し活をする人は、たとえば欲しいグッズやチケットについて、進んでお金を払います。お金を払う権利をめぐって抽選が行われるほどです。僕たちクリスチャンは抽選を経てでも献金したい、というほどに喜んで献げているでしょうか。でも実際に僕たちは神様から選ばれる、という抽選に当たるよりも遥かにラッキーな立場を手にしているんです。それに喜んで応答しているでしょうか。当たり前のことと思っていないでしょうか。
「献金は信仰のバロメータ」なんていう言葉があります。一見すると「なんてことを言うんだ!信仰をお金で判断するなんて!」と思えてしまうような言葉ですけれど、献金は感謝から生まれるものであり、感謝は「あたりまえ」には生まれません。自分が受けている恵みを「あたりまえ」と思ってしまうとき、進んで献金をするという心は生じないんです。金額ではなく、どれだけ感謝して、喜んでいるか。これが「バロメータ」ということなのかと思います。喜んで、進んで献げる献金だけが献金なのであって、強制的にいやいや献げる献金はもはや献金ではないんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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