「自己実現」を追い求めるのは不幸の始まり【聖書からよもやま話504】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、列王記第一の1章です。よろしくどうぞ。

列王記第一 1章5節

ときに、ハギテの子アドニヤは、「私が王になる」と言って野心を抱き、戦車、騎兵、それに自分の前に走る者五十人を手に入れた。

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ダビデ王は年老いてどんどん体が弱り、アビシャグという少女に体を温めてもらわなければ自分の体温を保つことさえできなくなっていました。彼女に添い寝してもらわなければ寒くて死んでしまうほどに弱っていたんです。なんだかちょっと卑猥な感じもしますが、それほど弱っていたので、ダビデが彼女に「手を出す」ということはなかったようです。とはいえ、もうちょっと他に体をあっためる方法はなかったのかい!と突っ込みたくもなります。たとえば湯たんぽみたいなものとか。

湯たんぽというのはもともとは中国のもので、室町時代くらいに中国から日本に渡ってきたのだそうですが、中国ではこれを「湯婆」と呼ばれていました。「婆」というのは「妻」のことだそうです。つまり湯たんぽというのは妻と添い寝して体を温める代わりにこれを抱いて寝ればいいじゃないか、というコンセプトの道具なんです。

と、いうことは、ダビデの時代には体を温めるには誰かと添い寝するというのは割と一般的なことだったんですね。なんせダビデが生きたのは紀元前1000年前後ですから、日本に湯たんぽが伝来する2500年も前の話です。現代の感覚で言えば、体温を保持するために添い寝するなんてちょっと異様な感じがしますけれども、現代の感覚で昔の感覚を裁くのは後出しジャンケンみたいにちょっとズルなことです。

さて、それほどまでに弱ってしまったダビデを見て、ダビデの息子の一人アドニヤは「俺が王になる!」と、クーデターを仕掛けました。ダビデはすでにソロモンを後継者として指名していましたが「あいつより俺の方が兄なんだし、俺が王になるべきだ」と思ったのでしょう。この試みはある程度はうまくいったのですが、最終的には失敗しました。アドニヤはそれなりの支持者を集めましたが、ダビデの側近や有力者の力を得ることはできませんでした。彼は例の「人間湯たんぽ」のアビシャグを妻にして王の座に近づこうともしましたがそれも失敗し、最終的にソロモンに殺されてしまいました。

聖書において「○○に、俺はなる!」と言って成功した人はほとんどいません。いるとしたら「救世主に、俺はなる!」と言って救世主になったイエス様くらいのものです。ダビデも「王に、俺はなる!」と言ってなったわけではありません。モーセも「イスラエルの指導者に、俺はなる!」と言ったわけではありませんし、アブラハムも「信仰の祖に、俺はなる!」と言ったわけではありません。聖書で何か大きなことをなしとげた人はみんな、自分の意思ではなく神様の意思によって成し遂げています。自分の意思や願いで何かを起こそうとすれば失敗するのが聖書の世界です。

現代社会では「なりたい自分になる」とか「自己実現」なんて言葉がもてはやされていますが、聖書ではその生き方は肯定されていません。なぜなら人間は身の回りのことを、ほんの小さなことでもコントロールすることはできないからです。明日の天気だってコントロールすることはできません。でも天気によって歴史は大きく変わりもするものです。織田信長が今川義元を倒した桶狭間の戦いも天気が違えば違う結果だったでしょうし、周瑜と諸葛亮が曹操を倒したとされる赤壁の戦いも天気が違えば別の結果でした。

そしてもちろん、人は人の心もコントロールすることはできません。もちろんある程度はできますし、社会生活はみんなが互いに互いを少しずつコントロールしつつ成り立っているものですが、しかしコントロールできるのはごく限られた部分だけです。その部分を少しでも増やそうとすれば、いわゆるマインドコントロールとか洗脳とか、そういった手法を使うことになりますが、これだって有効な相手とそうでない相手がいます。

そして人は、自分自身をもなかなかコントロールすることができません。僕もこれがなかなか苦手ですぐに怠けたり、夜更かししたり、深酒したり、してしまいます。もちろん自分をしっかりと律することができる人もいますが、これは想像以上に大変なことです。だからこそそれをできる人は尊敬されるのであって、決して簡単なことではありません。しかも、そんな人であっても風邪をひくのを完全に防ぐことはできませんし、他の病気になってしまうことだってあります。

人間は、特に現代人は「自分がコントロールできる範囲」を過大評価しすぎです。だから生きづらくなるし、苦しくなるんです。自分にコントロールできることはごくわずかなこと、それ以外のことは神様に任せてしまえばいいんです。「自分がコントロールできる範囲」を広げてしまうから、自分の責任も必要以上に大きくなって、意識的にも無意識的にも「自分のせいだ、自分がダメなんだ」と自分を責めてしまったりするんです。

生きづらさを感じている方は「自分のコントロールできる範囲」をもう一度ゆっくり棚卸ししてみて、それを少なくしてみるのはいかがでしょう。それがイエス様の言う「重荷をおろせ」ということなのかと思います。「○○に、俺はなる!」というのは漫画やドラマの世界ではかっこいいですし、成功もするのでしょうが、現実では自分を押しつぶす重石にもなりかねませんし、それに潰されてしまっている人もよく見かけます。もうちょっと身軽になった方がいいと思うんです、人間は。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

【メールマガジン始めました】
クリプレのメールマガジンが始まりました。日々、クリプレの最新記事を皆様にお届けいたします。無料でご利用いただけますのでよろしければこちらのリンクからご登録くださいませ。

【おねがい】
クリプレは皆様の献金により支えられています。皆様から月に300円の献金をいただければ、私たちはこの活動を守り、さらに大きく発展させてゆくことができます。日本の福音宣教のさらなる拡大のため、こちらのリンクからどうか皆様のご協力をお願いいたします。

 

横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

この記事もおすすめ