主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、使徒の働きの18章です。よろしくどうぞ。
ヘブル人への手紙 12章14〜16節
ガリオはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人の諸君。不正な行為や悪質な犯罪のことであれば、私は当然あなたがたの訴えを取り上げるが、ことばや名称やあなたがたの立法に関する問題であれば、自分たちで解決するがよい。私はそのようなことの裁判官になりたくはない。」そうして彼らを法廷から追い出した。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会
ガリオというのはローマ帝国の地方総督で、今でいう地方裁判所のような仕事もしている人でした。ユダヤ人達がパウロを訴えるためにガリオに言いました。「この人はまちがったやり方で神を拝むように人をそそのかしているので罰してください」
それに対してガリオは「パウロがローマ法に対して違法行為を行なっているのならともかく、君たちの信じる宗教において彼のやり方が正しいかどうかというのは君たちの宗教内の問題であって、裁判官が裁くべき問題ではないし、裁ける問題ではないよね」と、この訴えを却下しました。
実は日本の判例にもこれにそっくりな話があります。『板まんだら事件』という事件です。とある宗教団体が、板に曼荼羅を描いたものを「これは大変に素晴らしいものであるし、ご利益もあるものであるから、これを安置する建物を建てます。というわけで皆さん、そのために寄付をお願いします」と、信者達からお金を募りました。お金はそれなりに集まったのですが、信者の中からこんなことを言う人が現れました。「すでにお金を寄付してしまったけれども、よく考えてみたらその板まんだらというのは偽物なんじゃないか。ご利益なんてないんじゃないか。だとしたらそれを本物だとして寄付を募ったのはダメじゃないか。金返せ」。ということで、裁判になったのですが、結果は次のようなものでした。「その板まんだらに宗教的意味があるかどうかということは、あなたたちの宗教が決めることであって、裁判所が判断できることではありません。故に裁判所はこの訴えについて判断は下しません」
そっくりですよね。裁判所は「法的に正しいか」を判断する場であって、「宗教的に正しいか」を判断する場ではないんです。少なくとも近代法による法治国家においては。それを裁判所が判断するとなったら、たとえば「神社で学業成就のお守りを買ったのに受験に失敗した。お守りの効果がなかった。詐欺だ!」とか「恋愛成就のお守りを買ったのにフラれた。詐欺だ!」とか、そんな訴えが多発してしまうことになります。お守りに本当にご利益があるかどうかというのは裁判所に判断できる問題ではないんです。
旧統一教会問題にしても、裁判所が判断できるのは彼らが日本国法に照らして違法行為をしたかどうか、ということだけです。彼らの教えが正しいか間違っているかについては判断できません。実はここのところを混同してしまっているクリスチャンは多いように思います。彼らが「異端」であることと、「犯罪組織」であることはまったく別の問題なんです。ですから彼らの教えがいかに間違っているかを訴えても、法的な判断には何の影響力もありませんし、あってはならないんです。裁判所が判断を下すのは実際に行われた「行為」についてだけで、その理由となる「教え」とか「内心」ではありません。憲法に信教の自由や内心の自由が定められているのでこれらについて裁くことはできないんです。裁けるのはその「教え」や「内心」が、具体的な現象として現れた「行為」についてのみです。
「教えが正しいかどうか」と「カルトであるかどうか」、「教えが正しいかどうか」と「犯罪行為があるかどうか」はそれぞれまったく別の問題なんです。これを混同してしまうと、諸々の宗教問題について建設的な議論はできないと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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