主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
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聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、列王記第一の16章です。よろしくどうぞ。
列王記第一 16章30節
オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行なった。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
アハブは旧約聖書にたくさん登場する王たちの中でも「悪王」として名高い人物です。その妻は「悪女」と名高いイゼベルです。父のオムリについても聖書は「彼以前の誰よりも悪いことをした(25節)」と記していますが、アハブはさらにそれよりも悪かったということです。まるで「過去最高の出来」と最上の評価を与えた翌年には「昨年を上回る品質」とすぐにそれを上回る評価を与えるボジョレーヌーボーのような悪さ加減です。
しかし、もしかするとアハブもオムリも、現代の僕たちが想像するような「悪王」や「愚君」ではないかも知れません。彼らは聖書には「悪」と記されていますが、別の資料を見ると、「イスラエルの国際化を推進し、国力を増進させ、国際的地位を向上させた」など、むしろ明君としての評価を得ていることもあるんです。聖書には、彼らは異国の神々を崇めてイスラエルの神をないがしろにしたと記されていますが、視点を変えればそれは「他国の文化を積極的に受け入れた」ということにもなるわけです。
そして聖書も彼らを単に「悪」だとは言っていません。「主の目に悪」だと言っています。つまり彼らはもしかしたら当時の国民からは愛され、支持されていたかも知れません。「人の目に悪」や「民の目に悪」であることと、「主の目に悪」であることは違うんです。
善悪は相対的なもの、誰かが善と言えば必ずそれを悪と言うものです。・・・なんて結論をする気はありません。聖書が大切にしているのはあくまで「主の目」にどうであったかということです。そしてこれは「人の目」や「民の目」よりも優れたものです。なぜなら「人の目」も「民の目」も常に時代とともに変化しますし、せいぜい数年かどんなに長くても数十年のスパンでしか物事を判断できません。なんなら「人の噂も75日」というくらいで、あっという間に意見がひっくり返ったりもします。しかし「主の目」にはそんなことはありません。それは旧約聖書の時代から現代に至るまで変わることはありません。変化しない、絶対的な軸がそこにあるんです。だからこそ聖書は、人が何と言おうと、民が何と言おうと、「主の目」には彼らは悪であると宣言するんです。
現代を生きる僕たちにとって欠けがちなのはこの「主の目にどうであるか」という視点かと思います。僕たちは何かを判断するときに、周りの人がどう思うかという「人の目」や、時代の流れはどうだという「民の目」でばかり判断しがちで、つい「主の目」を忘れてしまいます。変わるものばかりを基準にして、変わらないものをないがしろにしてしまうんです。この点において、僕たちもまたアハブやオムリと本質的には変わらない、同じ罪深い人間なのかと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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