主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、ヨハネの福音書の20章です。よろしくどうぞ。
ヨハネの福音書 20章29節
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
時々、「神がいるというなら証拠を見せてみろ。見せられないなら信じない」という人がいます。そんな人は現代に限っているわけではなく、実は昔からたくさんいました。「昔の人は素朴だったし科学も進歩していなかったから神様なんてものを信じられたんだ」という見解は現代人の幻想に過ぎません。昔から、人は神様を信じなかったんです。
それはイエス様の12弟子の一人であったトマスでさえ、そうでした。彼は復活したイエス様を信じられず、「私はイエス様の脇腹の傷に手を突っ込むまでは信じません」と言いました。つまり「復活したなら証拠を見せろ。」と言ったわけです。そこでイエス様はトマスに言いました。「証拠を見て信じるよりも、見ずに信じた方が幸せだよ」と。
世は何かにつけて証拠証拠と騒ぎますけれど、実は証拠の出しようのないものは世にもたくさんあります。たとえば愛。皆さんはパートナーに愛されているという証拠を持っていますか?家族から愛されているという証拠を持っていますか?いくらコミュニケーションをしたって、プレゼントをしたって、言葉で伝えたって、それは愛の証拠にはなりません。「愛しているなら証拠をみせろ」と相手に迫ることは、結果的に、そこにあった愛さえも消し去ってしまうことがあります。「愛の証拠をみせろ」って無理難題なんです。
神様を信じることもまた同じです。神様を信じることは愛ですから。「神がいるなら証拠をみせろ」というのは「愛しているなら証拠をみせろ」と同じです。
愛というのは神様との間でも、人間同士でも、信じることが大切です。いくら証拠を求めても、実は証拠になんてなりません。「この証拠は偽物かもしれない」と疑えばいくらでも疑えるものです。そんな疑いの無限回廊の中に自分を置くよりも、勇気を持って信じる方が、愛には大切なんです。その方が幸せなんです。そして証拠を求めれば求めるほど、その愛は壊れていきます。愛を壊さないためには、勇気を持って信じることが肝要なんです。
何につけ信じることが難しい人の世です。だからこそ、勇気が必要なんだと思います。信じるのに必要なのは勇気です。愛に必要なのは勇気です。そして勇気に必要なのは愛です。愛と勇気の循環の中に、自分を置くことができれば、きっともっと幸せになるんじゃないかと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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MARO 1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。 10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。
著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)2022年3月15日発売。