主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 創世記の14章です。よろしくどうぞ。
ネヘミヤ記 3章5節
その傍らではテコア人たちが修復を行ったが、彼らの貴族たちはその上役に頭を下げることはなく、工事に協力しなかった。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
このネヘミヤ記の3章というのは、聖書にときどき登場する「恐ろしく退屈な箇所」の一つと言えるでしょう。ずーっと、エルサレム神殿の修復について「誰がどこを修復した」という記述が並んでいるだけです。そんなに細かく誰がどこを担当したかなんて、後世に伝える必要あります?神様?と尋ねたくなるほどです。しかしその中で、この第5節だけがちょっと異彩を放っています。ここだけ「誰がどこを修復した」ではなく「こいつらは協力しなかった」ということが書いてあるんです。
皆さんは映画のエンドロールって最後までみるタイプですか?僕は最後までみるタイプです。まぁそれはどちらでもいいんですが、映画のエンドロールというのはその映画のために働いた人たちの名前が、かなり細かいところまで並んでいますよね。特に近年の映画はその傾向が顕著です。昔の映画はそれほど細かくなかったので今ほどエンドロールも長くなかったんですけどね。まぁ、それもどうでもいいんですが、そのエンドロールには映画のために働いた人が並んでいるのであって、そこに「こいつは何もしなかった」とか「こいつは邪魔しやがった」という人の名前を晒すことはしませんよね。
この「恐ろしく退屈な箇所」は『エルサレム神殿再建』のエンドロールのようなものということができます。協力した人たちの名前がずらーっと並んでいるんですから。しかし神様はそこに「こいつらは何もしなかったぞ」という名前まで加えたんです。なんという晒し行為でしょう。よっぽど頭に来たんですかね神様。
よく自分の罪を回避するために「私は何もしていない!」と言うことがあります。もちろんこれは不当な罪を回避するためには有効な手段であって、それ自体は必ずしも否定されるべきものではありません。しかし、時と場合によっては「何もしていない」ということが罪になることだってあるんです。会社に行って「何もしていない」のは「給料泥棒」と言われるでしょうし、政治家が非常事態に「何もしない」のはやっぱり罪でしょう。僕たち行政書士が仕事を受任したのに「何もしない」のは、最終的には行政書士法違反に問われかねません。「何もしなければ罪は犯さない」というのはまちがいで、「何もしない」こと自体が罪になる場合も世には多々あるんです。世の罪でもそうですし、神様に対する罪でも同じことがあるんです。
キリスト教では「信仰は行動の実を結ぶ」と言われ、様々な行動が求められます。礼拝する、祈る、献金する、人を助ける、人を愛する、神を愛する・・・と、信仰があるならば自ずと行動に現れてくるものだと考えます。「何もしない」で神様への信仰を示すことはできません。もし身体が動かないとしても祈ること、愛することはできますから。ですから「何もしない」ことは罪なんです。
困っている人がいても助けない、というのは罪です。
道で倒れている人がいて、救護しないのは罪です。
神様がいるのに祈らない、というのも罪です。
「私は何もしていない」というのは神様には通用しないんです。そしてそれを続けていれば「何もしなかったやつ」として、神様のエンドロールに名前が晒されてしまうんです。なんと恐ろしい。それだけは勘弁して欲しいと思います。
でもだからと言って「何かをしなきゃ!」と焦る必要はありません。無理にその「何か」を探す必要もありません。神様は必要なときに必要なだけ、「すべきこと」を与えてくれますし、それをする力や活力も与えてくれます。自分で努力して、頑張って、力や活力を用意しなくてもいいんです。そこまで含めて神様は必要をすべて満たしてくださいますから。しかし神様を無視して生きていると、自分にその力や活力が与えられてた時に気づくことができません。するとこうして「何もしなかったやつ」として恥ずかしいエンドロールに名を連ねてしまうことになるんです。
日々、感謝して祈る。これだけでそんな事態は避けられるんじゃないかと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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