主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 歴代誌第一の8章です。よろしくどうぞ。
歴代誌第一 8章1節
ベニヤミンが生んだのは、その長子ベラ、次男アシュベル、三男アハラフ(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
この箇所はひたすら「誰が誰の子で、そのまた子はこの人で・・・」と延々と系譜が並べられているので非常に読んでいて退屈ですし、がんばったってここに書いてある名前をちゃんと覚えるなんてほぼ無理でしょうし、もはや眺めているだけで眠くなってしまうような箇所なんですけれど、それでもこうした「退屈な」ことであってもそれが聖書に書いてあるということは、それが重要な意味を持っているからということでもあります。実際、聖書学者や考古学者のみなさんはこの箇所から実に様々な情報を読み取ります。
とはいえ、僕は聖書学者でも考古学者でもありませんから、やっぱりこの箇所はかなり退屈に思えてしまいます。それでもこのコラムを書くために10分ほどぼーっとこの箇所を眺めてみましたところ、つらつらとこんなことを思いました。「親と子の関係って強いなー」と。人間関係って親子に限らず、兄弟とか夫婦とか友達とか恋人とか同僚とかいろいろとありますけれど、その中で親子関係っていうのはすこぶる強いなーと思うんです。
だって、兄弟はいない人もいます。配偶者だっていない人もいますし、友達も恋人も同じです。でも、親がいないという人はこの世に一人もいないんです。この世に生まれた以上、必ず親がいて、つまり親子関係というのは生まれた瞬間から、いわば人間の「デフォルト設定」として与えられている関係だということです。どんな人でもその人間関係は親子関係から始まるんです。「親と会ったことがない」という人ももちろんいますけれど、それでも「会ったことのない親」から生まれたという事実は変わりません。
つまり聖書に時々登場するこの「誰々は誰々の子で、その誰々は誰々の子で・・・」と延々と続く、一見退屈に見えるこの羅列は、絶対に揺るがない人間関係の羅列なんだなと思わされたんです。聖書にはもちろん、たとえばダビデとヨナタンのように「この二人は友達だったぞ」ということも書いてありますし「この二人は夫婦だったぞ」「兄弟だったぞ」ということも書いてありますが、それよりも「親子だぞ」という記述が圧倒的に多いんです。それは聖書が、つまり神様が「親子」という関係をとても大事にしているということなのかと思います。歴史を記録するときに土台となるのは友人関係でも夫婦関係でもなく、親子関係なんです。それは生まれた瞬間にすべての人に無条件に与えられる人間関係なんですから。神様からの最初のプレゼントとさえ言えます。
もちろん、ここに登場するたくさんの「親」の中には、きっとあまりよくない親、いわゆる「毒親」と言われるような人もいたことでしょう。「子」の方だってみんなが「いい子」だったわけがありません。親不孝者や不良息子もいたことでしょう。しかし、その親子関係がどんなものであったとしても、「親子」という関係は変わることがありません。仲が良くても悪くても、愛し合っても憎みあっても、変わることがありません。友人や夫婦なら離れることもありますし、結ばれたり切られたり、その関係が不安定で複雑です。しかし親子関係は切れることもなく、他と結ばれることもなく、極めてシンプルです。そのシンプルで強固な関係をベースとして、人生の他の人間関係は形成されます。
僕は亡くなった父と、必ずしも良好な関係ではなかった部分もありますが(良い面もあったんですけどね)、それがどうあれ、僕と父が親子であるということは絶対に変わらない事実なんだなと、切れない関係なんだなと、そんな当たり前と言えば当たり前なことを思います。
もうすぐ年末です。里帰りの機会に「親子関係」の特別さを味わってみるのもいいかもしれません。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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