主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、 テトスへの手紙の2章です。よろしくどうぞ。
テトスへの手紙 2章8節
非難する余地のない健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ネット社会での「誹謗中傷」や「炎上」が話題になることが多い世の中ですけれど、それらのことも、ここでパウロが教えているように、「健全なことば」を用いるように、反対に「健全でないことば」を用いないように注意することで、ずいぶんと防げることが多いように思います。特に「誹謗中傷」は「健全でないことば」そのものですから。
同じことを言っても、「私はあなたとは違う意見を持っています。私の意見はこうです」と丁寧に言うのと「お前は頭がわるいのか!?俺の意見が正しいんだばかやろう!」と言うのでは、説得力にも明らかな違いがあるでしょう。
スポーツの試合だって、たとえ試合に勝ったとしても反則やラフプレーが多ければ「あれは勝ちとは言えない」なんて言われてしまうかもしれません。反対にフェアプレーとスポーツマンシップを心がけていればその勝利は多くの人の賞賛を受けるでしょうし、たとえ負けたとしてもそれほど非難を受けることもないでしょう。
言葉の世界も同じです。悪い言葉が多ければ、たとえ論戦で勝ったとしても人の支持を受けることは難しいでしょう。せっかく正しい論考を述べたとしても、言葉が汚いというだけで、それが適切に評価されなくなってしまいます。もったいないことです。
かくいう僕も、口は悪い方ですから気をつけなければいけません。以前お付き合いしていた人に「あなたは口が悪いから」とフラれてしまったことさえあります。「あなたは悪口を言っているつもりはないんでしょうけど、その言い方じゃ悪口に聞こえてしまう。そんな人とは一緒にいられない」と。それを機に、言葉には少し気をつけるようになりました。とはいえまだまだ、悪い言葉がついこぼれることが多々あります。江戸っ子にとって「ばかたれ」とか「タコ」とか「ナス」とかが語尾につくのはもはや活用語尾みたいなもので、まったく意味も悪意もないのですけれど、それでも聞く人によって、それが文字通りの悪口だと思われてしまうのなら、それは悪口です。気をつけなければいけません。
言葉というのは「発する人のもの」ではなく、「受け取る人のもの」です。発する側が「そんなつもりはなかった」と言っても、受け取る側が「悪口を言われた」と思えばそれは悪口です。よくネット上で「これは健全な批判であって誹謗中傷ではない」というエスケープを見ますけれど、そんな言説にはだいたいどこかで「悪い言葉」が含まれているものです。自分は誹謗中傷しているつもりはなくとも、受け取る側、あるいはそのやりとりを外から見る第三者が「これは誹謗中傷だな」と判断すれば、それは少なくとも「誹謗中傷の要素も含む」言説であると言えるのかと思います。
福音を語るときだってそうです。せっかく聖書の教えを正しく解釈して語っているにしても、そこに「バカ」だの「タコ」だの「ナス」だのの悪い言葉が含まれてしまえば説得力を失ってしまいますし、「そんなあなたは不信仰だ」とか「あなたはサタンだ」とかそんな言葉だって同じです。
意見を言う時に相手を悪く言う必要はない。汚い言葉を交える必要もない。せっかくのあなたの意見、僕の意見、正しい言葉で伝えなくてはもったいないと思います。今日も自戒、大いに自戒。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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