主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、エレミヤ書の16章です。よろしくどうぞ。
エレミヤ書 16章20節
人間は、自分のために神々を造れるだろうか。
そのようなものは神ではない』と。」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
あるとき、仏教徒の人や神道の方を交えて宗教談義をしたことがありました。議論をしていたわけではありません。お互いの考え方を交換しあっていたような感じで、和やかな空気でした。しかし、そのときに「客観的な第三者」を自任する人が現れて、「まず皆さんに共通の前提を確認しましょう。神仏というのは人間が作り出したものである、と、このことを大前提に話しませんか」と言いだしました。ちょっと待て。他の方々はどうかわかりませんが、僕はその前提にはまったく同意できません。・・・と、いうわけで僕はその「客観的な第三者」さんのファシリテーションを丁重にお断りしたのでした。
「神は人間が作り出したものである」という考え方を持つ方は少なくありません。「神は人類の作り出した最高の発明品だ」なんていう人さえいます。しかし、もし「神」を人間が作り出すことができるのだとしたら、「神」を作った人間はその「神」よりも偉い存在になってしまいますよね。そしてさらにその「神」は人間の都合によって時代とともにアップデートされ、常に「便利な神」であることが求められるでしょう。そんな「神」を果たして神と言えるでしょうか。
人類は歴史の中で様々な「神」を作り出し、その像を作り、それを拝んできました。しまし、そのように人間が作った「神」は決して本当の神ではありません。いくら心をこめて「神の姿」を刻んだとしても、それは木や石にすぎません。神ではありません。
クリスチャンの中にも、一部ではありますが「時代に合わせて聖書をアップデートすべきだ」と主張する方もいます。聖書をアップデートするということは神様をアップデートするということとほぼ同義です。もちろん、訳をより正確なもの、読みやすいものにするためのアップデートは時々実際に行われていますが、彼らが主張するのは訳のアップデートではなく、内容のアップデートのことです。それはつまり「人間に合わせて神の方が変わるべきである」という主張です。人間や社会の要請に合わせてポピュリズム的に変化する「神」はもはや神とは呼べないでしょう。
人間を基準にして神が変われ、という態度から、神を中心にして人間(自分)が変わる、という態度への転換。この天動説から地動説へのコペルニクス的転回のようなパラダイムシフトを経た人こそが、真にクリスチャンであると言えるのかと思います。祈ることはもちろん大切ですが「神様、私は正しいので変わりません。あなたが私の正しさに合わせて変わってください」のような祈りは、果たして祈りと言えるでしょうか。それは「祈り」の名を借りた神様への「命令」になってしまってはいないでしょうか。そしてそんな「祈り=命令」に応じて変化してしまうような「神」は、僕たちが本当に慕うに足りるものでしょうか。短期的にはそれで嬉しいこともあるでしょう。しかし長期的にみれば、それによって僕たちは人生の基準を失ってしまいます。とはいえ、時についそんな祈りをしてしまうのもまた僕たちクリスチャンの隠さぬ姿かと思います。少なくとも僕の隠さぬ姿ではあります。
神様が人間の要望に合わせて変わったりしないということ。これが僕たちにとっては大切なことであり、変わらない神様がいるということこそが「良い知らせ」すなわち福音なんです。自分に都合のいい「神」を作り出してしまうことは人間を、人類を一直線に不幸や破滅へと導く、恐ろしい悪魔の落とし穴です。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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