主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、ヨブ記の15章です。よろしくどうぞ。
ヨブ記 15章10節
私たちの中には、白髪の者も古老もいて、
あなたの父よりもはるかに年を重ねている。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
落ち込んでいるヨブに対して友人エリファズは正論をぶつけまくります。落ち込んでいる人を正論で追い込むのはやめてあげてほしい・・・。「君のためを思って、あえて厳しいことを言っているのだ、くどくどくどくど・・・・」
落ち込んでいる人に必要なのは正論よりもまずは寄り添うことです。ちょっと元気を出してからじゃなくては正論も響きません。それは「病気には精をつけるのが大事だ!」とか言って、病人にむりやりニンニクたっぷりステーキを食べさせるようなものです。病人にまず必要なのはステーキよりもお粥とか桃缶とかです。
そんなわけでヨブはエリファズの「正論」を受け入れませんでした。するとエリファズは「俺たちは君よりもずっと長く生きているんだ!年上の言うことは聞くもんだ!」と怒り出してしまいました。わぁ・・・めんどくさい・・・迷惑・・・。それだけ経験を主張するんなら、落ち込んだ人の励まし方も経験しといてくれませんか、エリファズさん。
「俺の方が年上なんだから敬え!話を聞け!」というのは、まさに「老害」の始まりとなる態度かと思います。「年長者の話はやっぱり価値があるよね」と思ったり言ったりすべきはそれを受け取る側であって、発する側が「俺は年長者だから俺の話には価値があるんだ!」と言い出したらダメです。受け取る側にとって、これほどめんどくさいことはありません。
ドイツの「鉄血宰相」ビスマルクは言いました。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と。歳をとると経験が増えますが、経験というのは話の根拠として意外と頼りないものです。それはサンプルサイズ1の統計のようなものだからです。たとえば「私はこの方法でガンが治った!だからみんなも治るはずだ!」と主張されても、「たまたまあなたが治っただけですよね」という話になります。しかし「この方法で100人中70人のガンが良くなりました」と言われたら信憑性も出てきます。これが「経験に学ぶ」ことと「歴史に学ぶ」ことの違いです。歴史というのは膨大な数の人生の集合体ですから。
少し話がズレてしまいましたが、「年上である」ということは、「その人の意見が正しい」とは実はあまり関係がありません。たしかに両者に多少の相関関係はあるかもしれませんが、「年上だから正しい」とはとても言い切れません。
むしろ自分の間違いの可能性を認識してゆくことが、正しく歳をとることなのではないかと思います。若いうちは「俺は間違わない!正しい」と突っ走っても、歳を取るにつれて「たくさんの間違いもあった。気をつけなきゃな」と思えてゆくことが、「カッコ良いじいさん」になるために必要なのではないかと思います。歳をとるごとに「俺は正しいんだ!」となってしまっては「カッコ悪いじいさん」まっしぐらなように思います。
経験とは「正しさの積み重ね」ではなく「間違いの積み重ね」でありたい。そんな風に思います。自戒を込めつつ、そう思います。そして「カッコ良いじいさん」を目指したいと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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