主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、ヨハネの手紙第一の3章です。よろしくどうぞ。
ヨハネの手紙第一 3章23〜24節
私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ヨハネの手紙のこの第3章には「罪をおかす人は悪魔の子どもです」とか「義を行わない人は神の子ではありません」なんてことが書いてあるので、僕のようなぐうたらクリスチャンは「ドキッ」としてしまいます。「ごめんなさい神様、僕はまだまだ罪だらけです」とひれ伏すばかりです。
しかしその最後にこうして「とにかく愛しあうことだよ、それが何よりの神様からの命令だよ!」と言ってもらえることは救いです。もちろん、愛することって実はとても難しいことで、愛を実践しようとすればするほど、その難しさを痛感するばかりなのですが、それでもその難しさを痛感するくらいに愛を実践しようとしていることは、明らかに聖書からの影響を自分が受けているという証拠ですから、これも神様の恵みだと思えます。
さてそもそも、「愛する」ってどういうことでしょう?「愛が一番大事!」というのが聖書の最重要テーマの一つですが、「では愛ってなによ?」と問われると、実は意外と答えるのが難しいものです。
誰かを大切にして優しく接すること?
もちろんそれも愛の一部ですが、一部でしかありません。
誰かのために自分を犠牲にすること?
もちろんそれも愛の一部ですが、一部でしかありません。
誰にでも笑顔でいること?
もちろんそれも愛の一部ですが、一部でしかありません。
世で「これこそ愛!」と叫ばれるものも、
どれも確かに愛の一部ではありますが、一部でしかありません。
愛の定義はかくも難しい。
新約聖書はギリシア語で書かれていますから、ある程度ギリシア文化の影響も受けているのですけれど、ギリシア哲学では愛をこのように定義しています。すなわち「愛とはカオスがコスモスに向かうベクトル、憎しみとはコスモスがカオスに向かうベクトル」。
「コスモス」というのは「秩序、共栄、ハーモニー」みたいな意味で、「カオス」は「混沌、不協和」みたいな意味です。たとえば結婚は、もともとバラバラだった二人が小さい新しい秩序を構成するわけですから「カオス→コスモス」で、「愛」です。離婚は一つの小さい秩序が解体されて、バラバラな状態になるわけですから「コスモス→カオス」で「憎しみ」です。「あなたを愛しています」という告白は「あなたとわたしの間に新しい秩序ができつつあります」という告白なわけです。まぁこんな告白をしたらその秩序もあっさり崩壊する、つまりフラれるでしょうけれども。
世の中のあらゆるものは、放っておけばバラバラになるようにできています。互いに秩序を持たないことの方が自然なことであって、バラバラなもの同士が秩序を構成する方が不思議なことです。さまざまな分子が繋がりあって、複雑な生命を構成するなんていうのはその最たるものです。しかしそこに「愛」という力が存在するゆえに(物理学的には「強い力」とか「弱い力」とか「重力」とかと呼ぶのでしょうけれど)世界は、地球は、宇宙は、有機的な秩序をもって動いています。
バラバラに生まれた二人の人間が結ばれるというのも考えてみれば不思議なことです。しかしだからこそそれが「愛」と呼ばれるのでしょう。
「カオス→コスモス」か「コスモス→カオス」か。これぞ愛の定義だぞ!とは決して断言できるものではありませんが、僕は自分の行動を鑑みるときに、一つの尺度としてこれを使って考えています。するとなんとなくでも、おぼろげでも、見えてくるものもあるんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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