主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、創世記の32章です。よろしくどうぞ。
創世記 32章20節
ヤコブは「自分の先に行く贈り物で彼をなだめ、その後で彼と顔を合わせよう。もしかすると、私を受け入れてくれるかもしれない」と思ったのである。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ヤコブは、かつて自分が騙した兄エサウと再会するにあたって、非常に恐れていました。「兄さんは自分を恨んでいるだろうし、僕を殴ったり殺したりするかもしれない」と。そこで自分が兄に会う前に3回も贈り物を送りました。贈り物をすればちょっとは兄の怒りがおさまるかもしれないと思ったからです。まどろっこしい。姑息。
しかし、実は兄エサウはちっとも怒っていませんでした。たしかにかつて騙されはしましたが、彼の中ではそれはもう終わったことで、今の彼はただ純粋に「弟は無事だろうか、会いたいなー」と心配していたのでした。なんというナイスガイ。そんなナイスガイに対して弟ヤコブはコソコソと姑息な態度でなんとかうまく立ち回ろうとしていたのでした。
この兄弟の対比ですと、他の物語や小説なら、兄エサウがハッピーエンドを迎え、弟ヤコブが懲らしめられるパターンでしょう。しかし聖書はそうではありません。コソコソと姑息なヤコブが神様から祝福され、イスラエル民族の祖となるんです。
なぜならヤコブはエサウに対しては卑屈で姑息な態度をとりましたが、神様に対しては真正面からぶつかり、文字通り格闘し、骨を折られてもしがみつき、その祝福を求めたからです。ヤコブは人に対して姑息でも、神様に対しては誠実だったんです。一方でエサウは人に対してはナイスガイでしたが、神様のことは軽視する人物でした。
現代社会にこの兄弟が生きていたとしたら、みんなに好かれるのはエサウの方でしょう。ヤコブはあんまり人には好かれないタイプです。でも、神様の前に大切なことは人に好かれることではないんです。それよりも、神様の前に誠実であることが求められるんです。みんなに好かれる人気者はそれだけで大きな祝福を受けているように見えますが、実はそれは本当の祝福ではありません。人の好意よりも神様の好意を貪欲に求めたことが、最終的にヤコブの祝福に至ったんです。
もちろん、だからと言って「人に嫌われた方がいい」なんてことはありませんけどね。人に好かれることだって良いことです。時には必要なことです。神様を求めるからといって、いつも人に嫌われるわけでもありません。両者は必ずしもトレードオフの関係ではありません。ただし、どちらかを優先しなければならない時は、まちがいなく神様を優先させなければいけません。その時には、人からは嫌われるかもしれません。いえ、間違いなく嫌われるでしょう。それでも人より神様を選ばなければいけません。
「神様のためなら人に嫌われても構わない」という気概と「神様を求めるから自分は人に嫌われなければならない」という気概は似て非なるものです。「嫌われても構わない」であって「嫌われなければならない」ではないんです。ここを間違えてしまうと「自分が嫌われているのは、自分が正しく神様を求めている証拠だ」という、自己正当化になってしまいます。神様を抜きにしても「正しいから嫌われる」と「嫌われるから正しい」はまったく意味の違うことです。
ここの意味を取り違えて、人に対して姑息になってしまっているクリスチャンの方が少なくないように思います。ヤコブは祝福を得ましたけれど、人に対する彼の態度は褒められた者ではありません。ヤコブのように神様を求めつつ、エサウのように人に接することができたなら、それが理想だな〜なんて思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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