不機嫌なプレゼントほど困るものはない【聖書からよもやま話331】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、コリント人への手紙第二の9章です。よろしくどうぞ。

コリント人への手紙第二 9章7節

一人ひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

誰かにプレゼントをあげる時に「いやだなー、あげたくないなー」なんて思いながらあげたって、きっと相手は喜びません。「嫁の誕生日だから何か買って帰らなきゃ。かったるいなー」とか「バレンタインだから旦那にチョコ買わなきゃ、めんどくさい」なんて言うのなら、何も買って帰らない方がマシです。

僕の父は、時々母にお菓子を買ってきましたが、「お前が食べろ」と言って自分は食べず機嫌悪そうにしていて、「よくそんなに甘いもんが食えるな」とか悪態をついていました。父にとって母に「ときどきお菓子を買ってくる」というのは、いわば義務であってそこに喜びはなかったんだと思います。まるで「俺は義務を果たしているんだから文句を言うな」とでも言わんばかりの態度でした。そんな風にお菓子を買ってきてもらっても、母は食べている間、気まずいばかりで嬉しい気持ちはしなかったでしょう。

プレゼントというのは義務で行うことではありません。誰かにプレゼントを贈るというのは義務ではなく、むしろ権利です。その人の喜ぶ顔を見られるという権利です。

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UnsplashKira auf der Heideが撮影した写真

神様に対する献金や奉仕も、同じことかと思います。神様は「いくら献金しなさい」とか「これだけ働きなさい」なんて強制はしません。献金や奉仕は、人間から神様への、いわばプレゼントなんです。プレゼントであるということは、それは義務ではなく権利だということです。ですからいやいやながらではあまり意味がないですし、それならやらない方がむしろマシなくらいです。不機嫌なプレゼントほど、相手を困らせるものはありません。

昨日はバレンタインデーだったので、ありがたいことに僕もいくつかプレゼントをいただきました。皆さん上機嫌でくださったのでこちらも気持ちよく受け取ることができました。でももし「バレンタインデーだから仕方ないからあげる」なんて不機嫌に渡されたら、僕も「そんならいらないです」と受け取らなかったと思います。神様だって、不機嫌な献金や奉仕なら「そんならいらないよ」と思うんです。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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