主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、ルカの福音書の23章です。よろしくどうぞ。
ルカの福音書 23章23節
けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよ強くなっていった。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
捕らえられたイエス様の裁判を担当したピラトは、「この人は特に大きな罪は犯してないじゃないか」と、イエス様を解放しようとしましたが、それをゆるさなかったのは民衆でした。「いいからそいつを罰するべきだ。それも鞭打ちとかじゃなくて、一番重い十字架刑で!」と、その要求はヒートアップしました。ピラトはこの熱狂的な要求に、自らの身の危険まで感じたので、最終的にイエス様を十字架刑に処しました。
人間というのは集団になると個人では起こさない行動を起こすことがあります。個人では至らない心境に至ることがあります。いわゆる群集心理というものです。イエス様を十字架につけたのは、この群集心理なのかもしれません。もし、この時に「イエスを十字架につけろ!」と叫んでいた群衆の一人一人に、冷静に「イエスを十字架につけるべきか」と問うたら、「いや、別にそれほどでもないかも・・・」とか答えたかもしれません。実際に、「群衆」ではなかったピラトやヘロデは「いや、別にそれほどでもないよね・・・」という答えを出しています。
人間は「私」と「私たち」とで、異なる行動をします。「私」にはできないことが「私たち」にはできるんです。それはもちろん「みんなで力を合わせる」といった、いい意味での文脈でも当てはまることですが、残念ながら悪い文脈でも当てはまります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」なんて言葉がありますが、「私」なら冒さない危険を、「私たち」は冒してしまいます。「私」なら犯さない罪を「私たち」は犯してしまいます。それはおそらく、「私」はあくまで「私」である一方で、「私たち」は誰でもないからです。「私たち」の責任を「私」は負わないんです。「私」は「私たち」の一部ではあるけれど、「私たち」は決して「私」ではないからです。「やったのは『私たち』であって『私』ではない」と言えてしまうからです。イエス様を十字架につけた群衆も「イエスを裁いたのは『私たち』ではあるけれど『私』ではない」と思っていたことでしょう。「私」を「私たち」に投げ込むことで、本来は「私」が持っているべき当事者性と責任が失われてしまうんです。
民主主義というのも「私たち」が決定権を持ってしまうと暴走の危険をはらむように思います。民主主義を担うのは「私たち」ではなく、一人一人の「私」でなくてはいけません。何かを決めるのに「みんながそう言っているから」という理由が出て来るなら、それはもう「私たち」の罠にハマりかけています。何かをするのに「みんながそうしているから」というのも同じです。それは「みんな」に「私」が支配、コントロールされている証拠です。
「私たち」として行動するのはもちろん悪いことではありません。力を合わせて何かを成し遂げるのは良いことです。「私」にはとてもできない功績を「私たち」が重ねてきたからこそ、今の社会は成立していますし、その恩恵は「私」も大いに受けています。しかし注意しなければならないのはその「私たち」の行動は、本当に「私」の心と一致しているのかということです。「私たち」に「私」を置き去りにさせてはいけません。「『私たち』ではなく『私』ならどうするか」という視点は常に持っておかないと「私たち」の暴走を許すことになりますし、「私たち」の暴走は「私」の暴走よりもはるかに恐ろしい結末を招きます。「私」がしないことは「私たち」もすべきではありません。赤信号は「私」が渡らないのであれば、「私たち」も渡るべきではないんです。
赤信号、みんなで渡れば怖くない。
イエス様、みんなで殺せば怖くない。
民主主義、みんなで決めれば怖くない。
いえいえ、それが何より怖いんです。
「みんなで」を「私が」に置き換えたら、それがどれほどのことか。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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