接続詞のある人生 川﨑正明 【夕暮れに、なお光あり】

コロナ過で巣ごもりの生活が続く中、テレビドラマを観る機会が増えている。私が好きなのはサスペンスドラマで、とりわけ松本清張原作のドラマがいい。もちろんドラマはどこまでも「作り話」(フィクション)であることを前提に観ているのだが、実は起承転結的に構成されたドラマの結論をいつも気にしている。

例えば、連続シリーズのドラマで、毎回登場する無実の罪で追われている主人公が刑事に追い詰められて捕まりそうになる。視聴者は、「あぁ、もう捕まる!」と諦めかけた時、ふと時計を見るとドラマの終了時間が近づいている。CMの時間を計算すると、主人公は捕まらずに番組は終わるはずだ。もともと新聞の番組表には最終回とは書いてなかったから、ドラマは来週に続くのだ。つまり、ハラハラドキドキしながらも、もう一方では時計を見る余裕があるという「二重の目」でドラマを観ていることになる。このことは、私たちの人生と重なるところがあると思う。

使徒パウロの言葉に注目したい。「わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている」(コリント人への第二の手紙6章8~10節=口語訳)。

ここでは、「惑わし」と「真実」、「死」と「生」、「悲しみ」と「喜び」……というように、二つの反対の言葉が「が」という接続詞で反転している。言い換えれば、「悲しんでいる――しかし(にもかかわらず)――喜んでいる」というように、悲しみは絶対的なものではなく、喜びに変わるものだという生き方が示されている。この「が」「しかし」「にもかかわらず」という逆説の接続詞が、希望につながる鍵になっている。事柄を単眼的に見ないで複眼的に見ること、あのサスペンスドラマを観る目と同じである。

神を信じることによって、失望の中にいながら、同時に希望を失わないという「二重の目」が与えられている。私たちの人生は常にハラハラドキドキだが、行き詰まった状況を絶望的に決めつけずに、「しかし」という次の新しい展開を信じることである。「接続詞のある人生」――私たち高齢者のドラマもまだまだ続くのである。

 

かわさき・まさあき 1937年兵庫県生まれ。関西学院大学神学部卒業、同大学院修士課程修了。日本基督教団芦屋山手教会、姫路五軒邸教会牧師、西脇みぎわ教会牧師代務者、関西学院中学部宗教主事、聖和大学非常勤講師、学校法人武庫川幼稚園園長、芦屋市人権教育推進協議会役員を歴任。現在、公益社団法人「好善社」理事、「塔和子の会」代表、国立ハンセン病療養所内の単立秋津教会協力牧師。編著書に『旧約聖書を読もう』『いい人生、いい出会い』『ステッキな人生』(日本キリスト教団出版局)、『かかわらなければ路傍の人~塔和子の詩の世界』『人生の並木道~ハンセン病療養所の手紙』、塔和子詩選集『希望よあなたに』(編集工房ノア)など。

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