主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、詩篇の25篇です。よろしくどうぞ。
詩篇 25篇7節
私の若いころの罪や背きを
思い起こさないでください。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
誰にでも「黒歴史」ってあるものです。中学生くらいの頃を思い返せば、いわゆる「中二病」と呼ばれる、思春期特有の甘酸っぱかったり苦かったり、そして何より恥ずかしかったりする自意識過剰な自分の行動に赤面する方は少なくないかと思います。僕は実は、中学時代の日記帳をまだ持っているのですが、それを恐る恐る開くたびにものすごく恥ずかしい気持ちになるので、もうここ何年かは触れてもいません。「中二病」に限らずとも少年時代や青春時代って何かと恥ずかしい思い出が多いものです。大人になってから家族や友人にそんな恥ずかしい思い出話をされたら「やめてくれよそんな話。もうお願いだから忘れてくれよ」という気持ちになります。
もう一つ僕の「実は」を言いますと、実は僕は青春時代どころか、つい数年前の自分の書いた本や文章や日記に触れるのも恥ずかしく感じたりします。「ちょっと傲慢なこと言っているな」とか「青臭いこと言っているな」とか「これは完全に過ちだったよな」とか、思ったりします。クリスチャンとしても「これは罪だったな」とか「この時はもっと祈るべきだった」とか思わされたりします。
そんな過去の「恥ずかしいこと」を神様は全部覚えています。それをいちいち全部、「この時こうだったよね」「あの時はああだったよね」と指摘されたら、もう僕は恥ずかしくて息もできなくなってしまいそうです。ですから、この詩の詩人の言っている「私の若いころの罪や背きを思い起こさないでください」という気持ちは、なんだかとてもわかります。もちろん、この詩は「恥ずかしいこと」だけについて言っているわけではありません。「恥ずかしいこと」というか「恥ずべきこと」についても言及しています。つまりそれが罪や背きということです。
しかし、人がもし過去に「恥ずかしいこと」が一点もないと言うのなら、それはもしかしたら「気付いていないけれど実は今が最も恥ずかしい」という最悪な事態に陥っている兆候かもしれません。過去を恥ずかしく思うのは、自分が成長している証拠だとも言えるかもしれません。太宰治の『人間失格』の冒頭の言葉を借りれば「恥の多い人生を送って来ました」な僕の人生ですが、そう思えることこそが神様の、聖霊の導きなのだと思って、生きてゆこうと思います。
ちなみに、恥ずかしくて開くことのできない中学時代の日記帳ですが、これを捨ててしまったり焼いてしまったりする気はありません。もしかしたらこの「恥ずかしいこと」がいずれ僕の役に立ってくれることがあるかもしれないからです。恥ずかしくても自分の過去は自分の過去、それを燃やす気にはならないんです。でも万一、僕に何かがあって突然死んでしまったりした後で、その日記を見つけた方はどうかそれを開いたりしないで、そっと燃やしていただければ幸いでございます。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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