皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、詩篇の108篇です。それではよろしくどうぞ。
◆詩篇 108篇6節
あなたの愛する者たちが助け出されるよう
あなたの右の手で救い私に答えてください。
昨日に引き続き、今日も主人公はダビデ王です。この詩はダビデが神様を称えている詩ですが、その中で「あなたの愛する者たち」という言葉が出てきます。これは誰のことを指すのでしょう。実はこれ、他の誰を指しているのでもなく、「私たち」という意味です。つまりこの箇所で、ダビデは「あなたが愛している私たちを助けてください!」と言っているんです。
「自分が神様から愛されている」というのは、ダビデにとって疑う余地のない大前提なんです。だから「神様、あなたが私を愛しているのなら私を助けてください」ではなく、「あなたが愛している私たちを助けてください!」と堂々と力強く求めるんです。
これって「もしかして一種の傲慢じゃないのか」とも思えるかもしれませんが、そんなことはありません。たとえば小さな子どもって、自分が親から愛されているということを疑わずにその大前提の上で行動していたりします。つまりダビデの神様への信頼は、子どものように無邪気なものであるということです。そして、新約聖書の、マルコの福音書、ルカの福音書には揃って「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」と書いてありますから、ダビデの神様へのこの無邪気な信頼こそ、神様が僕たちに求めている姿勢なんです。さらにはヨハネの福音書でヨハネは自身のことを「主に愛された弟子」と記していたりもします。これは「ナルシスト?」なんて言われることもあるのですが、本当は誰よりも神様の愛に対して誠実だということなんです。
神様と人間の関係に限らず、人間同士の関係でも「自分は相手に愛されているのだ」という信頼は、大切なものなのだと思います。自分が心から愛している人から、「本当に私を愛しているんですか?」と疑われるのは心が痛むものですし、それが続けばだんだん愛しにくくなってしまいます。無邪気に愛を受け止めてくれる方が、こちらも無邪気にストレートに愛することができます。それは神様も同じなのだと思います。
神様は間違いなく、僕を、あなたを、一人一人を愛しています。ですから僕たちはみんな、「自分は神様から愛されているのだ」という確信を大前提にして、自信を持って神様に祈って良いのですし、そうすることが良いことなんです。「もし、私を愛していたら、の話で良いんですけど・・・」なんていうのは、謙虚というより、むしろ神様には失礼な態度なんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。