皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、ローマ人への手紙の2章です。それではよろしくどうぞ。
◆ローマ人への手紙 2章1節
ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行なっているからです。
自分のことを棚にあげて人を非難する人、いますよねー。誰かへの批判がそのまま自分に返ってきちゃうような、いわゆる「ブーメラン」な人も、いますよねー。いやですねー。そんな人にはなりたくないものですし、そんな人とは距離を置いて付き合いたいものですね。
・・・なんて。こんなことをもし僕が本気で書いてしまっているのだとしたら、僕こそ「自分のことを棚にあげて人を非難する人」ですし、この原稿自体がまごうことなく見事な「ブーメラン」です。
人の行動を見て違和感とか「嫌だな」という感じがしたとき、自分を省みてみますとほとんど必ずと言って良いほど、自分の中にも同じような部分があることに気づきます。時には「この人より自分の方がひどいじゃないか!」なんてときさえあります。そんな自分の本来の姿に気づかずに人を非難するなら、それはこの聖句に書いてある通り、自分で自分を裁くようなものです。
プロレスではよくヒール(悪役レスラー)が、自分で用意した凶器によって、最終的に自分が痛い目に遭うということがあります。そこに相手を叩きつけるために用意した机に、自分が叩きつけられるようなことです。自分の罪を省みることなしに人を非難する人は、まさにこのヒールと一緒です。その人は自分が叩きつけられるための机を自分で用意しているようなものなんです。
ヒールは時として、その凶器攻撃がうまくいって勝利を収めることもありますが、観客は誰も喜びませんし、そこに栄光はありません。人を非難するのも同じです。非難が上手くいって、それでひとまず相手より優位に立てることもあるかもしれません。しかし周囲の人はそれを喜びませんし、長期的には自分の立場を悪くします。
聖書でも『エステル記』や『ダニエル書』には、自分が人に対して設定した罰によって、自分自身が罰せられる悪役が出てきます。まぁ、それはそのうちこのコーナーでも触れる機会があるでしょうから今日は触れませんが、グリム童話でもアンデルセン童話でも似たようなモチーフの話はたくさんあります。古今東西、人は自分のことを棚に上げながら人のことを裁いてしまうものなんですね。
そんな「裁きの連鎖」から解き放たれることを、祈りたいと思います。
それではまた。
主にありて。MAROでした。