皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、マタイの福音書の22章です。それではよろしくどうぞ。
◆マタイの福音書 22章37節
イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』
イエス様は人間が守るべき大切な戒めを二つ、教えています。一つが今日引用したこれで、もう一つは有名な「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」です。
さて、今日はこの一つめの戒めについてお話ししたいのですが、ここには「知性を尽くして」とあります。クリスチャンとして生活をしている方には少し耳の痛い方もいらっしゃるかもしれませんが、クリスチャンの世界を見ていると、正直この「知性を尽くして」ということが忘れられがちのようにも思えます。信仰が感情的な盲信になってしまって、「とにかく信じれば良いんだ」「とにかく従えば良いんだ」「つべこべ言わずに、とにかく活動すれば良いんだ」という信仰生活を送るクリスチャンは、意外と少なくないように思えます。
もちろん「心を尽くすこと」は大切ですし、「命を尽くすこと」、これは必ずしも文字通りに命を賭けなくても、全力で信仰のために行動することとすれば、これもまた欠かせません。信仰が「知性」だけになってしまっては、いわゆる「頭でっかち」になってしまいます。しかしだからと言って「知性」をないがしろにしてしまっては、それはそれで満足な信仰とは言い難いんです。
相撲の世界ではよく「心技体」の一致が重視されますし、剣道では「気剣体」の一致が重視されます。3つのうち一つでも欠けていたら、道を極めることはできないということです。同じように信仰生活には「心・知性・いのち」の一致が求められるということです。
「何かひとつに特化して、スペシャリストになることが大切」とはよく言われますが、しかし信仰に関しては「心だけのスペシャリスト」「知性だけのスペシャリスト」「いのちだけのスペシャリスト」ではダメなんです。それは大相撲の力士が、「力だけ」とか「技術だけ」とか「気持ちだけ」では勝てないのと同じです。力と技術と気持ちがすべて備わって、初めて勝ち名乗りを受けることができるんです。
「やる気だけは誰にも負けません!」とか「強い気持ちでどんな困難も乗り越えます!」とか、勇ましい言葉を聞くことも世では多いですが、それだけではダメなんです。もちろん、気持ちがあれば、そこから技術や力を引っ張り出すことができるのでもありますが。
「知識だけは負けません!」でも困りますが、「行動力だけは負けません!」とか「情熱だけは負けません!」でも困るわけです。そして、どうも世の中では「情熱だけは!」や「行動力だけは!」の人が「情熱家」とか「精力的」と好意的に迎えられるのに比べて「知識だけは!」の人は「ガリ勉」と嫌われがちです。これは情熱や行動力に比べて、知識が軽視されがちであるということなのだと思います。社会では必ずしもそうとは限りませんが、少なくとも個人の心の中ではそうなのでしょう。祈ること、行動することも大切ですが、それと同じくらい、学ぶことも大切なんです。
・・・耳が痛い、という方もいらっしゃると思いますが、何を隠そう、これを書いている僕自身もすごく耳が痛いです。でもだからこそ、謙虚に受け止めなければいけないなと思います。「耳が痛い」ほどに、人を成長させてくれるチャンスは他になかなかありませんから。
それではまた。
主にありて。MAROでした。