皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、ヨブ記の16章です。それではよろしくどうぞ。
◆ヨブ記 16章6節
たとえ私が語っても、私の痛みは抑えられません。たとえ私が忍んでも、どれだけ私からそれが去るでしょう。
ヨブはありとあらゆる苦しみを受けて疲れ果ててしまいました。友人たちは慰めやアドバイスをくれようとしましたが、もはやそれもヨブの心には届きませんでした。それほど、ヨブの苦しみは大きく、深かったんです。
「誰かに話したら悩みが楽になる」とはよく言われることです。そして本当にそうなることも多いです。しかし、時には誰かに話したところで少しも楽にならない悩みもあります。むしろ話せば話すほど深みにはまるような苦しみもあります。
「今が正念場だから頑張って耐えて!」なんて励まされることもあります。そして本当に耐えることで脱出への光が見えてくるような苦しみもあります。しかし、時にはいくら耐えても少しも光が見えない苦しみもあります。耐えれば耐えるだけ、余計に強くなっていく苦しみもあります。
そんな「話しても楽にならない」「耐えても光が見えない」苦しみに直面することが、ヨブに限らず、僕たちの人生にもあります。これは「必ずあります」と断言してしまっても良いように思います。自分で耐えることはできない。しかも他の誰かに助けを求めることもできない。まさに八方塞がりの苦しみです。
しかし、そんな時でも、ヨブが今まさにそうしているように、神様に「悩み苦しんでいる自分」をありのままにさらけ出すことはできます。もはや神様に祈る言葉さえないとしても、言葉にならないうめきを絞り出すことはできます。
八方塞がりというのは、語源を調べれば陰陽道の言葉で、「あらゆる方角が塞がっている」ということです。つまり東・西・南・北・北東・北西・南東・南西すべてが塞がっているということです。しかし、まだ空いている向きがあります。「上」です。あらゆる方角が塞がってしまっても、「上」、すなわち神様とのパイプは決して塞がることがないんです。
「神様は越えられない試練を与えない」なんてよく言いますけど、いいえ、神様は人間に越えられない試練を与えます。そんな試練がもしないのなら、人間は神様も信仰も必要としません。人間は、自分で越えられない試練があるからこそ、自分の本質に立ち返ることができるんです。これはカール・ヤスパースという哲学者が言った「限界状況」ということです。人間は心身ともに力尽きる限界に至った時に、初めて実存的存在になるということです。
・・・ちょっと難しい言い方になってしまいましたが、簡単に言えば「どーにもならない時はある!そんな時はもはや神様にうめくしかない!そんな時だって人生にはあるのだ!」ってことです。
「自助・共助・公助」という言葉がこの1年くらい、世の中で話題になりましたが、この3つでは逃れきれない悩みや苦しみも世にはあります。しかしその時には、さらにその上に「神助」と呼ぶべきような領域があるのだと知っているのと知らないのとでは、心のあり方も生き方もまったく変わります。「公助」を得るには面倒な手続きとか書類とかが必要だったりしますが、「神助」には何の手続きも要りません。神様は、とことんまでの苦しみの中にある人にはもはや助けを求めるための手続きも祈りも、できる力がないことまで知っているんです。
どうか、本当に辛いときのために、このことは覚えておいていただきたいと思います。
それではまた。
主にありて。MAROでした。