皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、民数記の32章です。それではよろしくどうぞ。
◆民数記 32章5節
「もし、私たちの願いがかないますなら、どうか、しもべどもがこの地を所有地として賜りますように。私たちにヨルダン川を渡らせないでください。」
モーセとイスラエル民族の40年に渡る出エジプトの旅も終わりに近づき、神様が与えてくださった「約束の地」はもう目と鼻の先というところまで来ました。しかしそこで、イスラエル民族の一部の人たちは「僕たちはこの土地が気に入りました。神様の約束の地は要りませんから、この土地を僕たちにください。約束の地に行くのは嫌です」と言い出しました。
確かにそこは彼らには暮らしやすい土地、少なくとも暮らしやすいように見える土地だったようです。しかしだからと言って、みんなが「いざこれからゴールするぞ!」って時に、「いや、僕はゴールしなくていいや。みんなゴールしたいなら勝手に行って」と言い出すのは、空気を読めていないというか、感じ悪いですよね。
しかもそのゴールは神様の「約束の地」であるわけです。「約束の地」よりも今ここにいる土地を望むということは、神様の祝福を否定することと同じです。たとえば、せっかく「ステーキをおごってあげる」と偉い人が言っているのに、「いいえ、僕はこのハムを食べるからいいです」なんて答えるのは、「ステーキよりもハムの方が良い」と、ステーキの価値を否定することですし、何よりもその偉い人の厚意を踏みにじることですよね。つまり彼らは「約束の地」の価値を否定し、さらには神様の恵みをも踏みにじったのです。
結局、「自分はゴールしなくても、みんなのゴールのために全力を尽くす」という条件で、彼らはその土地に留まり、そこで生活することが許されました。そして彼らは本当にしっかりとみんなのゴールのために力を尽くしました。これでみんなも幸せ、彼らも幸せ、めでたしめでたし。
・・・とは、なりませんでした。短期的にみれば、みんなの願いがかなってめでたしめでたしでしたが、長期的にみれば彼らが得た土地はその後、イスラエル民族の中で最も早くに異民族によって滅ぼされてしまいました。その土地は暮らすには暮らしやすくても、守りには適さなかったんです。神様はちゃんとそこまで考えて「約束の地」を用意してくれていたのに、安直に目の前の「良さそうにみえるもの」に飛びついて、彼らは滅びの道を選んでしまったんです。
偉い人のステーキを断ってハムを食べ、それで偉い人の心証を悪くして出世コースからも外れてしまった、と、なんとも悲しい結末を迎えてしまったわけです。
でも、お腹が空いている時には2時間後のステーキよりも、今すぐのハムの方が欲しい時もありますよね。彼らもそんな気持ちだったのかもしれません。そう考えると「愚かな人たちだなー」と、他人事のように彼らを笑うことはちっともできなくなります。聖書に描かれている人物たちの姿はみんな自分の姿でもあると、その視点を忘れてはいけないと思います。
あぁ、こんな記事を書いたらステーキが食べたくなってきました。でも誰もおごってくれないのでハムを食べることにします。
それではまた。
主にありて。MAROでした。