皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、サムエル記第二の5章です。それではよろしくどうぞ。
◆サムエル記第二 5章8節
その日ダビデは、「だれでもエブス人を討とうとする者は、水汲みの地下道を通って、ダビデの心が憎む『足の萎えた者どもや目の見えない者ども』を討て」と言った。それで、「目の見えない者や足の萎えた者は王宮に入ってはならない」と言われるようになった。
「足の萎えた者や目の見えない者は王宮に入ってはならないなんて、聖書はやっぱり差別的!!」と思ってしまう人もいそうな箇所ですが、実はダビデがこんなことを言ったのには理由があります。この直前の6節で、敵のエブス人が「お前なんか、足が萎えていても目が見えなくてもやっつけられるぜ!」と、ダビデを挑発したんです。それでダビデはその戦に勝った後でエブス人のことを「足の萎えた者どもや、目の見えない者ども」と呼んだんです。つまりここに記されている「足の萎えた者どもや目の見えない者どもを討て」というのは文字通りの意味ではなく、「敵の残党を討ちとれ」という意味なんです。
そして、「目の見えない者や足の萎えた者は王宮に入ってはならない」と「言われるようになった」とありますから、これは周りの人がダビデの発言を文字通りに「あ、ダビデ様は足の萎えた人とか目の見えない人が嫌いなんだ!じゃぁ王宮に入れないようにしよう!」と
誤解してしまったということです。
・・・まぁ、いわゆる「忖度(そんたく)」という奴です。
忖度って、こんな風に間違いを生んだりします。上司はちっともそんなことを思っていないのに、部下の誤った忖度によって間違ったことが行われたりします。部下の部下の部下の部下・・・と階層が重なれば、これが積み重なってとんでもないことになったりもします。「伝言ゲーム」も、人数が増えれば増えるほど難しくなりますが、これに忖度が加わればさらに難しくなります。
忖度というのは、辞書を引けば「人の心を推し量ること」ですから、決して悪いことではありません。相手の立場に立って、相手の気持ちを察して、相手の望むことをしようとすること、これは「寄り添う」ということにも通じます。忖度がまったくなくなった世界を想像すると、人間関係があまりにパサパサで味気ないだろうなと思います。しかし、このように忖度が大きな誤りを生んでしまうこともあります。
人の心を「こう思ってるのかな?あるいはこうかな?」と推し量ることは美徳であっても、「こう思ってるに違いない!」と決めつけてしまうのは良くないことです。そのあたりを気をつけないと、このように「忖度の弊害」が出てきてしまうのかもしれないなと思います。
とはいえ、ダビデさんもちょっと口が悪いですよね。人の上に立つ人はできるだけ誤解を招かない表現をするように気をつけなければいけません。ちょっとした誤解が大きな結果に繋がってしまいますからね。もちろん、人の上に立たない人でも同じですけれど。僕も気をつけます。
それではまた。
主にありて。MAROでした。