皆様いかがお過ごしでしょうか。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、ローマ人への手紙の5章です。それではよろしくどうぞ。
◆ローマ人への手紙 5章13節
実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。
律法というのは旧約聖書でモーセを通して神様からイスラエルの民に与えられた「これをしてはいけない」とか「これはこうするべきである」と色々定められたルールのことです。これの最も基本になるのが映画でも有名な「十戒」です。これが与えられてから「これはダメ」「これはOK」という判断が明確になりましたが、しかしこれが与えられる前からダメなものはダメだったんだぞ、というのがこのローマ書に書いてあることです。
これはほとんど法律に置き換えても同じことかと思います。法律があるから罪があるのではなく、罪があるから法律があるんです。・・・少なくとも元々は。
現代社会では残念ながら法律が罪を作り出しているケースも多々あります。例えば人が自分の意見を言うことは本来は罪ではありません。しかし中国では法律によってこれが罪とされてしまっています。香港で何が起こったかを見れば、ウイグルで今何が起こっているかをみれば、それがどんな悲劇をもたらしているのかがわかります。
もともと悪いことを明文化するために「きまり」はあるべきであって、「きまり」によってもともと悪くないことを悪いことにしてはいけない、ということかと思います。法律で言うなら犯罪が法律をつくることはあっても、法律が犯罪をつくることはあってはならないということです。
もちろん、現代社会は色々と複雑ですからそんなに単純な話ではありません。例えば「生きる権利」は誰もが認めるところで、それを奪う行為が許されないのも誰もが認めるでしょうが、その行為を許さないための法律がどこまで許されるのか、と考えると非常に難しいことになります。
しかしそこをあえてシンプルに要約するのなら、「罪を犯すことはもちろん、罪を作り出すことも人間には許されていない」ということです。罪とは人間が人間の都合で、まして個人の都合で「これは私に不都合だから罪とする!」なんて決めたらいけないんです。さらにまして過去に遡って「あれは俺に都合悪かったからダメってことにして今から逮捕する!」のような事後立法なんてとんでもないことです。
しかし一方でそこに罪があるのなら、それを明文化することは必要であるということでもあります。時代によって罪のあり方は変わってきます。例えば30年前にはネット犯罪なんてほとんどなかったわけです。しかし時代が進んで現代ではインターネットを通した犯罪がたくさん生じています。これについて明文化することは必要ですし、この法整備の遅れが様々な問題を引き起こしています。この整備がなされず、法が時代遅れになればなるほど「法の抜け穴」は増えていき、罪が栄える結果になります。
とはいえ、その塩梅って難しいですよね。人間にはどうしても偏りが生じてしまいますから、完全に公正な罪の認識はできないですし、故にそれを裁くための完全な法をつくることはできません。でもだからこそ、神様は人間に聖書を与え「これを参考にしなさい」と言っているんです。
何が罪で、何が罪でないのか。究極的にはこれは神様にしか決められないことですが、現実の「国」という単位でみれば、それは日本では立法府である国会です。善悪の判断をするのは裁判所ですが、善悪の定義をするのは国会だということです。なんとも荷が重い仕事だとは思いますが、そういう重責を背負っているのだということを自覚していただきたいですし、その人たちを選ぶ我々も、そういう役目の人を選ぶのだという自覚を持つべきなのだなと思います。
なんだかすこしややこしい話になってしまいましたが。でももうすぐそんな人たちを選ぶ日がやってきますね、日本全国。
それではまた。
主にありて。MAROでした。