【連載小説】月の都(28)下田ひとみ

 

岡島記念病院の前にタクシーが停まった。

ドアが開くと、飛び降りた真沙子は小走りで玄関を入っていった。リノリウムの床に真沙子の足音が響いている。受け付けを通り越してまっすぐにエレベーターに向かい、中に入ると7階のボタンを押した。

「早く。早く着いて!」

真沙子は口に出して叫んだ。

エレベーターのドアが開くと、フロアの長椅子に謙作が座り込んでいた。

「ケンちゃん」

謙作がゆっくりと顔を上げた。

「藤崎先生は……

「助かった」

真沙子は謙作の隣にくずおれるように座り込んだ。

「よかった……

「発見が早かったらしくて」

両手で顔を覆った真沙子は、しばらくうつむいたままの姿勢でいた。

「大丈夫、マコ?」

「大丈夫。覚悟の上のことだもの」

顔を上げた真沙子は、滲(にじ)み出た涙を指で拭った。

「子供たちは?」謙作が尋ねた。

「お隣に預けてる」

看護師がワゴンを押して詰め所から出てきた。職員がカルテを手に通り過ぎていく。面会コーナーではパジャマ姿の患者や見舞い客たちが談笑していた。

真沙子はぼんやりとその光景を眺めていた。

心が麻痺(まひ)してしまったようで、何も考えられなかった。恐れていたことがやはり起こってしまったのである。その衝撃から抜け出せずにいた。

「とにかく助かったんだ」

謙作がつぶやいた。自分に言い聞かせているようだった。

「そうよね」

「感謝しなくちゃな」

「うん……

 

しばらくして主治医の辻(つじ)から説明を受けた。身体は数日で回復するはずだが、精神状態が落ち着くまで面会は許されないとのことだった。

謙作は真沙子といったん帰ることにした。昼食もまだだし、仕事も残っている。

謙作はふみのことを思い出し、病院から電話をした。

「藤崎先生と連絡がとれました」

「先生はどちらに」

「急病で……入院されましたが、たいしたことはないようです。ご心配だと思って、取り急ぎお電話させていただきました」

本当のことは今は話せない。

申し訳ないと思いながら電話を切った。

 

夕方になって、謙作の携帯電話が鳴った。

「岡島記念病院の辻といいます」

「辻先生、先ほどはどうも……

「実は……

辻医師の声は、なぜかためらいがちだった。

「何か?」

「藤崎さんについ今し方、事故がありまして……

「事故?」

「看護師が目を離した隙(すき)に、窓から……。残念ですが藤崎さんは、お亡くなりになりました」(つづく)

月の都(29)

下田 ひとみ

下田 ひとみ

1955年、鳥取県生まれ。75年、京都池ノ坊短期大学国文科卒。単立・逗子キリスト教会会員。著書に『うりずんの風』(第4回小島信夫文学賞候補)『翼を持つ者』『トロアスの港』(作品社)、『落葉シティ』『キャロリングの夜のことなど』(由木菖名義、文芸社)など。

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