【連載小説】月の都(26)下田ひとみ

 

10

 

陶子が芸能界入りしたのは高校生の時で、街角でスカウトされたのがきっかけだった。大手のプロダクション事務所に所属し、最初はモデルをしていたが、やがて女優として舞台に立つようになった。

端役から数年して大きな役が与えられるようになると、嫉妬した仲間たちから陰惨ないじめを受けるようになった。疲れ切った陶子は、ある日、ホームで電車に飛び込もうとした。間一髪、周囲の人が気づき、大事に至らなかったが、両親が心配して精神科を受診させた。

80歳を超えた温厚なクリスチャン・ドクター野島(のじま)から、陶子は多大な感化を受けた。教会へ通い始めて、洗礼を受け、再発に苦しめられながらも初志貫徹し、神学校を卒業できたのも野島のおかげだった。

いま通っている病院は野島から紹介されたのだが、担当のこの中年医師にどうしても陶子は馴染めなかった。自分の意見を押しつけるし、カウンセリングを受けても型通りの言葉しか言わない。調子が悪いと訴えても、返ってくるのは「薬を替えましょう」か「もう少し様子を見ましょう」のふた通りのみ。この医師が患者の苦しみを理解しているとは、陶子には思えなかった。

野島の勤務する病院は、電車を乗り継いで片道3時間かかる。通うのは無理でも、一度、野島先生に診ていただこうと、陶子はずっとそう思っていた。だが、忙しさに取り紛れて、その機会がないままでいるうちに月日が流れた。

そんなある日のことだった。陶子が仕事を終えてアパートに帰り着くと、1枚のハガキが届いていた。手に取ってみると「野島医師を偲ぶ会のお知らせ」とあった。

彼はひと月前に亡くなっていたのである。

 

薄いヴェールのような薄雲は巻層雲(けんそううん)の俗称で、陽の光を遮(さえぎ)ることがないため、よほど注意をしていなければ、雲が広がっていることに気づかない。そんな空模様のこの日──

謙作がひと仕事を終えて、昼食を摂(と)るためにアパートへ帰ろうとしていた時、事務室の電話が鳴った。

「浅香台キリスト教会です」

「わたくし、桐原と申します。そちらの伝道師の藤崎先生にお世話になっている者です。あの……

電話の声の主はためらいがちに、陶子が約束の時間に現れないので心配している、と伝えた。

「今日のお琴のお披露目(ひろめ)会で踊っていただくことになっているんですけど、まだお見えになりません。電話をしてもつながりませんし、だんだんと心配になってきまして──。突然に申し訳ございません。ご迷惑かとも思ったんですが、教会のほうで何かご存じかもしれないと思いまして……

「藤崎先生は何時にそちらに伺う約束だったんですか」

「11時です」

腕時計を見ると、時刻は12時を少し過ぎていた。

「昼食はうちでとお約束していましたから、支度をして待っていました。お披露目会は2時からなんですが、まだ何の連絡もありません。こんなことは初めてなんです。いつもは時間をきちんと守られる方ですし……

「わかりました。私はこの教会の牧師で、名倉といいます。藤崎先生は今日はお休みの日なので、今こちらでは何もわからないのですが、先生を捜してみます。事情がわかり次第、ご連絡をさしあげます」

相手の電話番号をメモし、謙作は電話を切った。

なぜだかわからないが、ひどく胸騒ぎがした。

陶子の携帯にかけてみたが、つながらない。大急ぎで教会のビルを出ると、謙作は車に飛び乗った。(つづく)

月の都(27)

 

下田 ひとみ

下田 ひとみ

1955年、鳥取県生まれ。75年、京都池ノ坊短期大学国文科卒。単立・逗子キリスト教会会員。著書に『うりずんの風』(第4回小島信夫文学賞候補)『翼を持つ者』『トロアスの港』(作品社)、『落葉シティ』『キャロリングの夜のことなど』(由木菖名義、文芸社)など。

この記事もおすすめ