【連載小説】月の都(16)下田ひとみ

 

数蒔(かずま)の病室にいた時であった。一人息子の勲(いさお)は学生で、普段は京都で下宿生活をしている。父親危篤(きとく)の知らせに帰省をし、紘子とともに病院に詰めていた。

病院は海辺に建っており、数蒔の病室は海に面していた。穏やかな陽が窓から射し込み、波の音が聞こえている。

そのとき紘子はベッドの脇の椅子に腰かけ、林檎(りんご)の皮をむいていた。勲は長椅子で雑誌を読んでいる。テーブルに置かれたガラス製の水差しが陽を浴びて光っていた。

「決めたよ」

夫は眠っていると思っていたので、紘子は驚いて顔を上げた。

「あなた?」

「山賀神父を呼んでくれ」

その言葉を紘子は不審に思った。山賀神父とは、西長坂カトリック教会の司祭だった。夫とは数度、面識がある程度で、親しい仲ではない。

「山賀神父様に何かご用ですの」

「洗礼を受けたいんだ」

紘子は果物ナイフをゆっくりと皿に置いた。何を聞いたのか、わからなかった。それをどう受けとめていいのかも、わからなかった。突然の、あまりに思いがけない言葉であった。

勲は素直に「回心」と理解したようだった。立ち上がって、父親のもとに行くと、その手をにぎり、声を詰まらせた。

「お父さん……

「早く……間に合わなくなる」

そう言うと、数蒔は引き込まれるように眼を閉じてしまった。昏睡(こんすい)に陥ったようであった。

電話で事情を伝えると、山賀神父が駈けつけてきた。

紘子は、何が起きているのか、わからなかった。

何が起ころうとしているのかも、わからなかった。

眼を閉じた夫の姿を、ただ凝視していた。

 

この間にも短い秋の日は暮れていった。

太陽が西に傾き、海に沈んでいく。

色を深めていく紫色の空。

暮れなずむ銀色の水面。

浜辺には子守歌のような潮騒(しおさい)が響いている。

やがてすべては闇に覆われていった。

 

数蒔が目を覚ましたとき、紘子は夫の手をにぎっていた。

「山賀神父様に来ていただきましたよ」

紘子が声をかけると、数蒔は穏やかに頷(うなず)いた。

替わって神父が枕元で話しかけた。

「西長坂教会の司祭をしている山賀です。洗礼をお受けになりたいということですが、今お受けになりますか」

数蒔の眼が深く頷いた。

「イエス・キリストをあなたの救い主と信じますか」

弱々しい声であったが、数蒔は明確に答えた。

「はい」

枕元に聖水が用意された。

神父が式文を読み上げ、聖水を手にした。

「私は父と子と聖霊の御名によって、あなたに洗礼を授けます」

まるですべての力を使い果たしてしまったかのようだった。洗礼が授けられた後、数蒔はふたたび昏睡に陥った。何度声をかけても、手をにぎっても、何の反応もなかった。

そのまま息を引き取った。(つづく)

月の都(17)

下田 ひとみ

下田 ひとみ

1955年、鳥取県生まれ。75年、京都池ノ坊短期大学国文科卒。単立・逗子キリスト教会会員。著書に『うりずんの風』(第4回小島信夫文学賞候補)『翼を持つ者』『トロアスの港』(作品社)、『落葉シティ』『キャロリングの夜のことなど』(由木菖名義、文芸社)など。

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