【インタビュー】作家・下田ひとみさん 小説の作り手として、万物の造り手である神様のことを思いながら(後編)

前編を読む)

──洗礼を受けた時のことを教えてください。

22歳の時に洗礼を受けました。

私はちょっと複雑な環境の中で子ども時代を送っていて、集団に馴染めない子どもでした。一人の世界で遊ぶのが好きで、変わった子どもだったかもしれません。まわりの子どもを見て、「どうしてこの人たちは学校に行けるのだろう」とか思っていましたから。それでも中学、高校、短大と何とか通い、そんな時に友だちに誘われて西日本福音ルーテル教会・鳥取福音ルーテル教会に行きました。21歳の時でしたが、「こんな世界があるのか」と、いい意味でのショックを受けました。

──それで受洗されたのですね。

キリスト教の教理は素晴らしいとすぐに思いました。内容も理解できたのですが、でも信じられない。「どうしたら信じられるでしょうか」と聞くと、教会の人は「祈りなさい」しか言ってくれません。そこで、納得できる答えをくれる人がほしくて、今回連載されるその教会の杉谷先生に聞きに行くと、「私にも分からない」と言われ、「分からなくても信じられるんだ」と気づいたのです。そうして、信じられないけれど、信じたくて洗礼を受けました。

──その後、ご家族も全員、洗礼を受けられたと聞きました。

まず私がクリスチャンになってから、父、母、弟、そして妹も洗礼を受けましました。父は私の受洗時に大反対したので、その父が「主よ」と祈った時には涙があふれました。ただ神のあわれみで、感謝しかありません。

その後、私は結婚しましたが、子どもを失い、50代後半に離婚してと、私なりの苦しみを通ってきました。文学は苦しみの中から生まれるとも言えるので、私にはこの苦しみは必要だったのかもしれません。

──苦しみや悲しみを小説の中で解決しているのですね。

私が書き手でなければ、立ち直れませんでした。書いている時は、食べることも眠ることも忘れるくらい濃密な時間で、そこには神様がおられることが当たり前で、この世ではなく特別な空間で書いている気がします。「これを書くために生まれてきたんだ」と思って書いているのですが、書き終わると、次が書きたくなるんです。次のテーマが与えられるというか……。「白い闇」は2週間くらいで書き上げました。それから何年もかけて直し、世に送り出しまた。どの作品もわが子です。

ただ、信仰がなくなった時期がありました。50代半ばの頃です。30年間、イエス様が共にいたのに、その頃は何とも言えない感覚に陥りました。1年半、まるで宇宙遊泳をしているみたいで、重心(キリスト教)がないから、あてもなく浮いていて、遠くに宇宙船(教会)が見えて乗り込みたいのに……。最初は解放感があったけれど、「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32、新改訳)という言葉を失ったと思いました。

──そこからどのように立ち直ったのでしょうか。

私がどんな状態でも神様は見ていると分かったからです。今の教会の祈祷会に導かれるようになり、信仰を取り戻していきました。信仰の回復とともに出版したのが、架空の町に暮らす人々を描いた短編集『落葉シティ』(文芸社)でした。来年4月には『落葉シティ2』(同)も刊行されます。

──書くことは生きることに直結しているようですね。

何年も本を出せなかった時に富岡さんから、「下田さんが芽が出なかったのは、物を書く筋力を養うためだったんだ」と言われたことがとてもうれしかったです。またスランプの時にも、「僕も小説を書きたかったけれど、書けなかった。小説を書くのは一つの才能で、世に出るとか売れるとかよりも、書けるということ自体が特別なことで、あなたは書けるのだから、それだけですごいことなんだ」と言われたことも励みになりました。

私は中学時代、感受性が人一倍強くて、気分屋で、「なんでこんなに心が一定していないんだろう」と悩んでいました。クラスの中に、いつも落ち着いて、気分に波がない人がいて、そうできない自分が悲しかった。

でも、そういう人間だから小説が書けるのかなと思い、書くということに出会えたことで、つらい思いも結実しました。主の導きかなと思っています。まさに、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者3:11)です。

──新しく始まるエッセイ「思い出の杉谷牧師」について聞かせてください。

杉谷先生との出来事は、私の中の大切な思い出です。信仰の原点でもあり、喜びでもあるので、ぜひそのことを残したいと思って書きました。

思い出の杉谷牧師(1)下田ひとみ

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