今日9月7日は泉鏡花が亡くなった日です。幻想的な短篇小説『高野聖(こうやひじり)』や、数多く映画化やドラマ化された長編小説『婦系図(おんなけいず)』など、語彙豊かで視覚的な、リズム感のある文体で綴られるロマンティックな小説には今も多くのファンがいます。
金沢に生まれ、10歳のとき、母親を産褥熱のため亡くして(享年29)、鏡花は幼心に強い衝撃を受けました。12歳から15歳まで、ミッション・スクールの男子中学校「愛真学校」(後の北陸学院)で英語などを学びます。創立者は、アメリカ長老教会の宣教師トーマス・ウィンとイライザ夫人で、1881年に日本基督一致教会・金沢教会(後の日本基督教団・金沢教会)を設立し、翌年、教会付属の愛真学校を開校しました。
その3年後に鏡花は入学します。そこの教師だったフランシナ・ポートルに鏡花は亡き母の面影を重ねて敬愛し、その日々の回想は「一之巻」~「誓之巻」に描かれています。
枕に沈める横顔の、あはれに、貴く、うつくしく、気だかく、清き芙蓉(ふよう)の花片(はなびら)、香の煙に消ゆよとばかり、亡き母上のおもかげをば、まのあたり見る心地しつ。いまはハヤ何をかいはむ。「母上(おっかさん)。」と、ミリヤアドの枕の許(もと)に僵(たふ)れふして、胸に縋(すが)りてワッと泣きぬ。……神よ、めぐませたまへ、憐みたまへ、亡き母上。(誓之巻)
「愛真学校」の名前の由来となった「真実の愛に生きる」という精神も、思春期の鏡花の中に培われ、その小説の中に生きているといわれます。泉鏡花研究の第一人者だった村松定孝(上智大学名誉教授)は、愛真学校の教育から体得したキリスト教的ヒューマニズムが小説にじみ出ていると指摘し、次のように述べます。「(鏡花は)洗礼をうける一歩のところまで来ていたかもしれない。しかし、法華宗の父へのおもわくもあっただろう。私は彼の受洗の可否よりも、むしろキリスト教精神の受容こそ問題にしたいのである」(『泉鏡花研究』冬樹社、77~78頁)