12月30日「物質性」

 わたしたちは最初から最後まで「物質」に浸されて過ごしている。創世記の初めから、わたしたちは「物質」に浸されている。そして「ヨハネの黙示録」の終わりにおいては、わたしたちは再び「物質」に浸っている自分を見出すのである。「土地と歴史」あるいは「風土と気候」そして「受肉と秘跡(サクラメント)」の中だけで、全てのことが生起している。わたしたちは「物質」で形成されている。この世界の物ごとを離れると、福音の中身が失われる。あるいは福音の何も理解できなくなる。また、福音を受け止めることが出来なくなる。この世界の出来事だけが現実であるとは言えないが、この世界の事物を離れると、生ける信仰によって確立する人生のほとんどを否定することになってしまう。つまり、わたしたちは「物質」を離れては何も経験出来ないのである。「神と魂」のように「目に見えない偉大なもの」もあるが、それらも「目に見える偉大なもの」つまり「天と地」なしでは、理解できないのである。

 「目に見えないもの」は「目に見えるもの」によってのみ理解される。福音とはグノーシス主義のあらゆる形式に敵対するものである。「出来事によって始まり、それが霊的なものへと徐々に精練される」というものは福音ではない。「物質世界と肉体を持ったイエスとイエスの血から始まり、そして、それ自身が徐々に変化して、ついにエーテル【古代ギリシア時代から20世紀初頭まで想定され続けてきた、全世界を満たす霊的元素のひとつ】と天使と理念の次元にまで上り詰める」というのは、神の啓示ではないのである。
 

その都市は希少な宝石の輝きに揺らめき、
 光に満ち溢れていた。
その都市の光は脈を打っていた。
その都市は雄大に城壁を構え
12の門を抱えて高くそびえ立っていた。
―― ヨハネの黙示録21章11~12節a

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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