「スピリチュアルな読書」には、読書一般にはない特別な性質がある。わたしがそれを知って感銘を受けたのは今から約20年前のことだった。その頃、わたしは再びランニングを始めていた。わたしは大学や神学校でもランニングを非常に楽しんでいた。でも、学校を卒業した時に、走るのを止めた。大の大人が楽しむだけにランニングをすることは、わたしにはどうもピンとこなかったのだ。加えて、わたしはもう牧師になっていたので、自分の教会員が、薄着姿の牧師が街中を走るのを見たら、どう思うかと考えると、どうも自信が持てなかった。しかし、知り合いの医師や弁護士や重役といった人たちがランニングをしていること、そしてその最中に、わたしと同年代や年上の人々と街中で出会ってもなお威厳を保っていることに気づいた。それで、わたしも何か吹っ切れた。それで直ぐにランニングシューズ(アディダスだった)を買いにいった。 ―― そこで、ある革命的変化が、わたしの学生時代から、靴に起こっていることに気づいた。わたしは走ることを楽しみ始め、長い距離を走る際のスムーズなリズム、静けさや孤独、研ぎ澄まされる感覚や筋力の弛緩(しかん)といったことを再び楽しむようになった。それから直ぐに、わたしは10キロのレースに月一回、あるいはそれ以上の回数、参加するようになった。年一度のマラソンにも参加した。ランニングというものは「肉体的な行為」なのだ。それは広い意味での「儀式」にまで発展進化する。 ―― つまり、それはわたしが存在しているこの精神・感情・霊的な世界にまで展開する。その時期まで、わたしはランニングに関する三つの雑誌を購読していた。ランナーやランニングに関する本を図書館から借りるようになっていた。わたしは一度もランニングに関する本が退屈になることはなかった。 ―― 食べ物、ストレッチ運動、トレーニング方法、心拍数の鎮め方、神経伝達物質エンドルフィン、カーボローディング(競技に必要なエネルギーを体内に蓄える食事法)、糖質増量、電解質摂取 ―― そうしたこと、つまりランニングに関することであれば、わたしはそれらを読んだ。でも、そこにどれくらい、ランニングのことが書かれていたのだろうか? ほとんど例外なく、ランニングについて的確に書かれているものなどはなかった。でも、それは問題にはならなかった。わたしは同じものを20回も読んだ。くだらない論評が陳腐(ちんぷ)な決まり文句で組み合わせただけのもであっても、全然気にならなかった。わたしはランナーだった。そのため、ランニングに関することがどんなことでも、身近に感じられた。でもある時、わたしは肉離れを起こし、6週間走ることが出来なくなった。怪我をしてから2週間したころ、あることに気づいたのだ。別に「読まない」と「決めた」訳ではなかった。ランニング雑誌は家中のいたるところにあったのだ。だが、わたしはそれらを読まなかった。怪我をしている期間、わたしは一度も走らないし、その時、わたしはどの本も雑誌も全く読まなかった。走らなかったので、読めなかったのだ。再び走り始めると、読み始めた。
「スピリチュアルな読書」という時に使う「スピリチュアル」という語について理解を修正しなければならないことに気づいたのは、その時であった。つまり、この言葉は「参加型の読書」を意味していたのだ。読書の時、読むページの全ての言葉は「このわたしが」行っていることと関係がある。つまり一つひとつの言葉が、わたしが行っている延長線上にあり、それを深化するものであり、それを修正するものであり、それを肯定するものである。 ―― そのように読むことが「スピリチュアルな読書」の意味である。
イエスは言われた。「昔、嵐が襲い波が来た時、家がトランプカードで作った家のように、ばらばらになってしまったことがある。それは砂の上に家を建ててあったからだ。もし、わたしの言葉を聖書研究の中だけで使い、自分の人生の中で使わないならば、その人は、そんなことをした愚かな大工のようなものだ。」
―― マタイによる福音書7章26~27節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。