11月13日「スピリチュアルな読書」

 発行者が紙に印刷をし、そして、読者が名詞と動詞を区別する程度の方法を知っておく ―― それだけでは不十分である。聖書を読むとき、正しいやり方を採用しなければ、大きな問題が起こり得る。あなたは自分の聖書を持っているかもしれないが、自分の都合に合わせて神の御言葉を所有している訳ではない。 ―― 実に、神こそが主権者である。モロッコ産のなめし皮で作られた聖書を50ドルで買えるだろう。でも、神の御言葉は人格的で、生きて働きかけるものである。 ―― つまり、神は愛である。わたしたちが聖書を読む時に、神の主権に服さず、その愛に応答しないならば、わたしたちは知的な面で傲慢(ごうまん)で、非人間的な態度をとることになる。

 数世紀にわたりこの問題で展開してきた叡知と忠告と技能が、あるラテン語の言葉の中に集約されている。そのラテン語は「Lectio Divina」というものだ。英語では「spiritual reading=スピリチュアルな読書」と訳されることが多い。この言葉が示す方法で、わたしたちは聖書を謙遜と親しみを抱いて読むことを教えられる。

 この「スピリチュアルな読書」という言葉は「霊的な何か」を読むことを意味しているのではない。その「読み方」について霊的であることを意味する。第一にこのことは「聖書をどう読むか」に関わるべきものである。聖霊に聴くことに関わるべきもので、油断なく神からの示唆を感知するというものである。しかし、それだけではない。この「スピリチュアルな読書」の技術は書物一般のほとんど全てにわたって活用できるものである。つまり、手紙や詩や小説やあるいは料理の本であっても、広く活用することが出来る。

 「Lectio Divina=スピリチュアルな読書」が目指すところは、実に単純である。 ―― 少なくとも端的に理解しやすい。それは人格的に読むことである。非人間的に読むことではない。それはまた、自分自身が誰であって、どのようになって行くか、あるいはわたしたちは如何に生きるかということに関わるメッセージを読み取ることでもある。つまり、自分の生活水準を高めるための情報を得るためだけの読書ではないということである。
 

パウロは彼らに、一日中語り続けた。朝から晩まで語り続け、神の国に関わる全てを説明し、またモーセの律法や預言者がイエスについて書いたことを指摘しながら、イエスについて彼らの説得につとめた。ある者はパウロのことを聞いて説得された。しかし、他の者はパウロの説得の言葉を信じることを拒否した。
 ―― 使徒言行録28章23b~24節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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