クリスチャンたちは、歴史的にも、「聖書を如何に読むか」と同様に、「聖書を読むこと」に関心を抱いてきた。クリスチャンの共同体の中では、全体として、誰かに聖書を手渡し「これを読みなさい」と言っておけばそれで十分だとは決して考えてはいない。それは思春期の人の手にホンダの車の鍵を渡し「運転しなさい」というのと同じ程に馬鹿げている。それは危険極まりない。わたしたちの手に技術の一端を手に入れて、それを自分の無知や破壊的な意思とに組み込むようなことで、危険なことである。
印刷とは技術である。わたしたちは神の言葉を、自分の手中に持っている。実に「わたしたちの手中に」神の言葉を持っている。わたしたちは今や神の言葉を操作できるようになったのだ。わたしたちは神の御言葉を自分の許に置き、御言葉を支配し、管理し、使用し、応用できるのだと考えるようになってきてしまったのだ。
実際、機械の技術以上のものが、ホンダの車にはある。同じように、印刷の技術以上のものが、聖書にはある。機械技術の周りには、車重と内装、車両価格と速度、外装と障害物、シボレーとフォード、交通規則と警察、他の運転手たちや、そして雪や氷や雨という「自動車の世界」がある。そうなのだ、自動車は変則ギヤとハンドル操作だけで出来ているのではない。自動車を運転することは「イグニッションキーを回してアクセルを踏む」という以上の行為である。「自動車の世界」を知らない人が自動車を運転したら、すぐ死んでしまうか重傷を負うことになるだろう。
それと同様に「聖書の世界」がある。それを知らない人は、「自動車の世界」を知らない人が自動車を運転すると同様に、自分や他人をも傷つけしまう。そういう訳で、わたしたちが聖書を手渡し、聖書を読むことを奨励する時には ―― 「Caveat Lector:読者ヨ、留意セヨ」という。
イエスがこう言った。
「よい土地に蒔かれた種とは
ニュース(御言葉)を聞き取る人であり、
その人の最大の夢を超える実りを
生み出す人のことである。
―― マタイによる福音書13章23節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。