11月5日「疑いの祈り(詩編73編)」

 疑うことは罪ではない。疑いは信仰にとって不可欠な要因である。誠実だから疑うのである。物ごとは外見では分からない。わたしたちは信じていることと、経験することが矛盾していることは知っている。今ここで何が起こっているのだろうか? 神はわたしたちにでたらめな情報を流したのだろうか? なぜ物ごとは期待するような結果にならないのだろうか? 信仰が成熟するためには、疑いが避けられない。疑いも否定しない。むしろ疑いは、信仰をして堅固な岩盤へと向かわしめる。
 

女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、この井戸は深いのです。どこからその『生きた水』を手に入れになるのですか。あなたは、わたしたち父ヤコブよりも偉いとでも言うのですか? 先祖ヤコブこそ、この井戸をわたしたちに与えくれました。ヤコブ自身も、その子どもたちや家畜も、彼自身も、この井戸から水を飲んだのです。そして、ここに、井戸が残されたのですよ。」
 ―― ヨハネによる福音書4章11~12節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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