疑うことは罪ではない。疑いは信仰にとって不可欠な要因である。誠実だから疑うのである。物ごとは外見では分からない。わたしたちは信じていることと、経験することが矛盾していることは知っている。今ここで何が起こっているのだろうか? 神はわたしたちにでたらめな情報を流したのだろうか? なぜ物ごとは期待するような結果にならないのだろうか? 信仰が成熟するためには、疑いが避けられない。疑いも否定しない。むしろ疑いは、信仰をして堅固な岩盤へと向かわしめる。
女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、この井戸は深いのです。どこからその『生きた水』を手に入れになるのですか。あなたは、わたしたち父ヤコブよりも偉いとでも言うのですか? 先祖ヤコブこそ、この井戸をわたしたちに与えくれました。ヤコブ自身も、その子どもたちや家畜も、彼自身も、この井戸から水を飲んだのです。そして、ここに、井戸が残されたのですよ。」
―― ヨハネによる福音書4章11~12節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。