聖書を二つの文脈で聞くことが重要である。聖書がイスラエルやキリストによって話され聞いた文脈と、わたしたちが聖書を聞いて生活している文脈である。神は同じ文章を色々な人々に色々な方法で語りかける。というのは、わたしたちは成長の過程が異なるからだ。家族の中でもそれが如何に機能しているかが分かる。父親が物語を話すと、2歳の子どもと15歳の子どもは別の側面を聞き取る。妻はなお別なことを聞く。彼らは皆同じ話を聞いている。そしてみな正確に聞いている。彼らはみな違うように答える。みな適切に答えている。聞く側のわたしたちが日々変わるので、わたしたちは聖書に日々聞き続ける。
わたしたちの先達者たちは、そのことを、わたしたちよりも上手に行ってきたのである。先達者たちは「聞き/応える」という方法で聖書に向かっていた。「学問的に/操作するために」という向き合い方ではない。先達者たちの聖書に対する畏(おそ)れを抱き聞く姿勢に慣れ親しむことは、「受験生が試験の準備のために勉強する」という聖書へのアプローチがどんなに貧相なものかがよく分かる。わたしたちは聖書を「利用し」「応用する」誘惑から決して免れることはない。本当は、むしろ、わたしたちが聖書に従い、まだ見ぬ何かに向かって進むよう呼び掛ける神に聞くべきなのだ。わたしたちは絶えず警戒していなければならない。わたしたちは聖書に向かう時、「読み続け/聴き続ける」という姿勢を保たなければならない。つまり、「わたしたちが、聖書を」用いていくのではなく「聖書が、わたしたちを」用いていくべきなのだ。すなわち、たとえそれが善意に満ちていても、わたしたちが自分で決めた目的のために聖書を用いても、上手くいかない。
イエスはこう言われた。
「蒔かれて雑草の中に落ちた種というのは、
神の国のニュースを聞いても、
思い煩いと、『もっと』と囁く幻想、そして
日の下にある全てのものを得ようとする思いが、
雑草のように邪魔をして、
せっかく聞こえたニュースを握りつぶし、
そのニュースによって得られるべき悟りを
窒息させてしまう、そのような人である。」
―― マタイによる福音書13章22節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。