10月24日「願望と希望」

 「希望」と「願望」を区別することは絶対に重要なことである。この二つは同じではない。「願望」を、わたしたち全てが持っている。「願望」とは、わたしたちがやりたいことや必要と考えていることの未来に向けての投影である。わたしたちはよいことや聖なる物を願うこともある。しかし、それだからと言って、その「願望」が「希望」であるとは限らない。「願望」とは、自分のエゴを将来に広げることである。「希望」とは神が為そうとすることを切望することである。しかも、その「神が為そうとすること」が何であるか分からないうちに、それを切望すること ―― それを「希望」という。

 「願望」はわたしたちのエゴから育つ。「希望」は、信仰から育つ。「願望」は、必ず、わたしについて、人や神について「足りない」と感じることとつながっている。「希望」は必ず、わたしについて、物質世界について、人間世界について、わたしを超えて「足りない」と、神が感じることとつながっている。

 「願望」は未来への反映されたわたしたちの意志である。他方で、「希望」は未来からくる神の意志である。あなたがたは次のことを想像して見てください。「願望」はわたしたちの中から孤を描いて進む。それは未来へ飛び去る矢である。「希望」は神の中から孤を描いて進む。それはわたしに飛んでくる矢である。

 「希望」はわたしたちの驚きとなる。わたしたちは自分たちにとって何がベストであるかが分からない。わたしたちは自分の生涯が如何にして全うされるのかをも分からない。だから「希望」はわたしたちの驚きとなる。

「希望」を育むには「願望」を抑えなければならない。自分の「願望」を空想することを拒否しなければいけない。そうして初めて「希望」は育まれる。
 

……次に神が何を為すのかを、機敏に対処しなさい。このような機敏な期待感を持つと、決して物足りなさを感じることはない。反って ―― 容器がいくつあっても、神が聖霊を通してわたしたちの人生に惜しみなく注ぐものを収めることは出来ない。
 ―― ローマの信徒への手紙5章4b~5節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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